幻月51

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「ああ、この男が振り回していたナイフはそのテーブルの上のビニール袋の中にあります」
 谷川が橋本に言った。
「この男以外に素手では触っていません」
 すかさずそう付け加えた谷川をじっと見つめた橋本は、「失礼ですがご同業ですか」と丁寧に尋ねた。
「元です」
「そうですか」
 警察が来る前に、千雪が小田弁護士と連絡を取って大体の詳細を伝えてあった。
 皆は必要以上のことを警察には話さないつもりだという考えで一致していた。
 やがて辻らと渋谷が戻ってくると、「応援頼みました。死体が埋まっていました」と橋本に告げた。
 それから警視庁からの一行がやってくるのと入れ違えに、皆は警察で一通り事情を話してからようやく日を跨いでの帰還となった。
「危うくまた冤罪でっちあげるとこでしたね」
 もちろん、帰り際に千雪が渋谷にきつい一言を言い放ったのは言うまでもない。

 
 

 十月初旬、NBCの創設六十周年記念ドラマ「田園」の制作発表が、都内のTホテルで行われた。
 主演の宇都宮俊治、竹野紗英をはじめ、山内ひとみ、中川アスカらに混じって、本谷和正も隅の方で晴れやかな顔を取材陣に向けていた。
 良太は裏の方でそれを見ながら、まさしくこれでようやくひとつ肩の荷が降りたとばかりに、はあっと大きくため息をついた。
 案の定、工藤はこの場にはいないが、NBCのチーフプロデューサーと脚本家の坂口陽介がいれば問題はないのだ。
 ただし、工藤は京都で『大いなる旅人』の撮影のためスケジュールが合わないことになっているが、制作発表なんぞに顔を並べるのが嫌なためにわざわざ、京都のスケジュールを入れたに決まっている、と良太は確信していた。
 冬のシーンでの撮影がまだ残っていて、十一月後半には小樽に良太も同行する予定だが、大方の俳優陣は撮了となっていた。
 本谷も色々あったが、今は竹野とも言葉をかわす際も物怖じしなくなっていたし、竹野自身が最初に出演が決まった頃のようなギスギスした感じがなくなり、どこか丸くなったように思っているのは、良太だけではないだろう。
 一方、こちらもおいそれとは終わらないかと思われた小林千雪原作のミステリードラマ『からくれないに』もあと数シーンを残してほぼ終了予定で、制作発表も数日後に控えている。
 このドラマにはキーマン的な役で全編に渡って出演していた本谷和正も、明後日の撮影をもって終了となる予定だ。
 何ごとも順調だった。
 工藤が姿を現さなかった九月の終わり頃のことも、制作陣それぞれがどうせ他の仕事でいないんだろうくらいしか、思っていなかったし、工藤がやがていつものように現れて同じように撮影も進んでいった。
 工藤自身も誰もあの事件のことをもう思い出したくもなかった。
 関わった面々もその事件について口にする者はなかった。
 とりあえず何もかもが元通りになった。
 少なくとも表面上は。
 良太はしばらくは工藤の行動に必要以上に注意していたし、直子のことも心配していた。
 一度はカウンセリングを受けた方がいいと良太は直子を説得し、千雪の部屋で、京助の知り合いの精神科医に面談を受けてもらった。

 


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