東京へ行こう -ハンスとケン- 29

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 むしろ身体を傷つけてほしいなどという自虐的な思いは、与えられる恐ろしいほどの愉悦に思考はついていけなくなった。
 風が流れるように音が流れるようにケンはハンスの腕に操られて甘い夏を甘受した。
「ケンも誘おうぜ」
ある日の夕方、ロジァが言うのを、あいつは予定があるから駄目だ、とアレクセイがとめるのを耳にして、ケンはアレクセイが二人のことを気づいているとわかったが、ケンには何も言ってはこなかった。
明日はニューヨークに帰るという夜も、ケンはハンスに抱かれた。
ひどく疲れさせられて、けれどまだ離れがたいハンスの腕の中でぼんやりしていたケンに、ハンスが囁いた。
「悪い、もう明日は帰ってしまうと思ってつい、考えなしにやってしまった」
 ケンはいや、とだけ口にした。
「ずっと言おうと思ってたんだが、俺とつきあわないか?」
 思考能力が落ちている頭で、ケンはその言葉を理解できなかった。
 理解するより先にケンの耳には不協和音のように響いた。
「返事はすぐでなくてもいい」
 ニース空港までゲミンゲンの操縦ヘリコプターで三人を送ってくれたハンスは、チェックに向かおうとしたケンを呼んで言った。
「考えてみてくれ」
 ケンは頷いたものの、何をどう考えていいかわからなかった。
 やがて機は離陸し、窓越しに見えた地中海が遠くかすむと、ケンは目を閉じた。
 約九時間程のフライトの後、アレクセイやロジァと空港で別れたケンは、暑いだけのニューヨークの喧騒を車で通り抜けて自宅へと向かった。
 駆けてくるジョーの姿を見た時、ケンは我に返った気がした。
 まさしくあれは、真夏の夜の夢、ってやつだな。
 昔映画で見た、ナルニア国から現実の世界へ戻ってきた、みたいな。
 仕事で顔を合わせても、アレクセイやそれにロジァもモンテカルロやハンスのことには触れなかったし、ケンにしても落ち込んでいた自分などそれこそどこかに吹っ飛んでしまったくらいだったので、そのうち仕事に忙殺されて日常に埋没した。


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