「お帰り」
「ただいま。留守中ありがとう」
ゲミンゲンと一緒に荷物を中まで運んでくれたハンスは「ゆっくりお休み」と言って車に戻ると、ちょっと手を振って、リムジンとともに屋敷を去って行った。
その時唐突に、ケンの中でハンスに追いすがりたいという強烈な思いが沸き上がった。
何だかわからないが、ゆっくりお休み、という言葉がまるで、これでさよなら、というふうにケンの中で変換されていた。
だが一歩踏み出そうとして、ケンは辛うじてそれをとどめた。
ハンスにもし、これでさよならと言われたとしても、それはそれで仕方がないことなのだ。
ここまでハンスに何も応えないということは、その気がないのだと思われて当然だろう。
ひょっとしたらハンスも自覚したのかもしれない。
一時の気の迷いだったのだと。
あるいは、やはり愛しているのはアレクセイなのだと思い知ったのかも。
ケンは知らず唇を噛みしめた。
夏にハンスと会った時はお互い前に進もうとしていたはずだ。
こんなところで留まっているつもりはなかったはず。
心の行く末には方程式のように答えが用意されていない。
傷を癒そうとして新たな傷を作ったら意味がないだろう。
世の中そううまくはいかないものだな。
ケンは愛し合っていた相手と別れなければならなかったというロウエルの心に思いを馳せる。
来ない返事を待って、ロウエルは裕子が心変わりをしたのかとも思ったとも手紙にはあった。
そうは書いてはなかったが恨んだだろうか、裕子を。
そういえばロウエルからの手紙は裕子に届けられなかったのかもしれないが、裕子からは手紙を出そうとしなかったのだろうか。
だが、無理やり愛してもいない男と結婚させられましたなんて、書くこともできないか。
だから失意のうちに病んで亡くなってしまったのだ。
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