「どうもしないが、お前がどんな暮らしをしているかと思って、母さんにも一度行ってみてくれと頼まれてたしな」
宮坂のアパートを引っ越す時、まだ使えるものなどを浩一が知り合いの学生に譲ったりしてくれたのだが、引越しの時は浩一は仕事があったし、友人が手伝ってくれるからと呼ばなかった。
城南大学工学部の助教で講師も務めている浩一は、見るからにひょろっと学者肌ではあるが、中身は結構熱い男で、池上線沿いに妻子と暮らしている。
金沢の実家からは兄と弟が東京に出てしまったが、浩輔の姉が結婚して実家の近くに住んでいる。
英報堂を勝手に辞めて、入社の際手を貸してくれた遠戚の手前、顔に泥を塗ったと、浩輔は父親に勘当を言い渡されている。
だが、母親も姉も心配して、浩一経由で浩輔のようすを確認しているのだ。
「うん、ありがとう。今の会社にも慣れたし、今のところ順調って感じだよ」
浩輔はチョコレートの包みを開けながら言った。
バレンタインデーにもらったチョコレートは賞味期限がまだ先で封を開けてないものがたくさん残っているので、オフィスに持って行ったりしているのだが。
「ならいいが………しかし、いくら社長の家とはいえ、このグレードはちょっと違うぞ。一体どういう会社なんだ?」
「小さな広告代理店だよ。今、社員は四人で、青山にオフィスがある。英報堂の時、上司の河崎さんのこと話したことあったよね? 社長は河崎さんで、英報堂を辞めて今の会社を興したんだ。他のみんなも元英報堂の人だよ」
そう話しながら、浩輔は浩一に本当のことを話そうかどうしようか迷っていた。
おそらく事実を知ったら浩一は怒るだろう。
「河崎って、確か、河崎グループの御曹司とかいう?」
「そう。今のオフィスの上にはギャラリーがあるんだけど、そこのオーナーは河崎さんのお姉さんなんだ。兄さん、絵とか好きでしょ? よかったらそのうちのぞいてみなよ」
「なるほど、そういうことか。お前が英報堂を辞めたのも、いずれその河崎さんが興す会社に移るためだったということなら、お父さんもいい加減勘当とかやめるんじゃないか?」
浩輔は、うん、まあ、と言葉を濁した。
今はこうしてウソのようだが河崎と幸せでいられるのだから、ここまでの紆余曲折はわざわざ浩一に話すことでもないだろう。
いや、多分に話せない内容があるし。
だが、河崎との本当の関係を話したら、勘当はやはり解けるものではないと思う。
「兄さん、食事は?」
「ああ、今日はちょっと顔を見に寄っただけだから家に帰るよ。お前は弁当があるんだろ?」
浩一は立ち上がると、コートを羽織り、帰り支度をする。
「弁当はいいんだけど、お義姉さんや利奈ちゃんが待ってるよね」
浩輔はエントランスホールまで浩一を送って行った。
「お義姉さんによろしく」
「ああ。お前もたまにはうちに遊びに来いよ」
「うん」
思いがけない兄の訪問に、浩輔は何となく寂しさを感じないではいられなかった。
いや、後ろめたさか。
ほんとのことなんて、なかなか言えないよな…
はあ、と大きく息をついて、浩輔は弁当を食べ始めた。
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