西麻布にある『庭』は表側から見ると無愛想なコンクリートの壁だが、数段の階段を降り、黒塗りのドアを開けると、一階は緑鮮やかなパティオを囲む吹き抜けのレストラン、地下にシックな大人の隠れ家的バーがある。
「いたいた、ヤギちゃん」
聞き覚えのある通りのいい声に、カウンターでゆっくりグラスを傾けていた下柳は軽く手を挙げた。
「あたし、シャボー、ロックでお願い」
下柳の横に座ると、ひとみはバーテンダーに早速そう告げる。
「お前、最初はカクテルかなんかにしてみたらどうだ? 可愛げの片鱗がないともいえないと、意外性に騙される男がまれにいるかもしれないぜ」
今更言ってどうなるわけでもないこととはいえ、一応は口に出して下柳は無精ひげを指でさする。
「なんなのよ、その回りくどいイヤミは。須永ちゃんも何かもらったら? 帰りはタクシーにしよ」
下柳とひとみのやりとりをクックッと笑いながらひとみの横に座った須永は、えっとばかりに顔をひきつらせる。
つまりは、腰を据えて飲むと言っているも同然だからだ。
「でも、ひとみさん、明日、スタジオ入り八時……」
「まだ時間あるじゃない」
はああ、と須永は思わず胃をさする。
上のレストランで美味な食事を一緒にとったのはいいが、あとがこれでは消化不良を起こしそうだ。
「なかなか美味しかったわよ、ヤギちゃんにしてはいい店知ってるじゃない」
「こないだ、良太ちゃんに教わったんだよ、バーもあるって」
下柳はぼそぼそと答えた。
「へえ、久しぶりに良太ちゃんの顔を見たくなったな、呼んじゃおか」
「やめとけ」
携帯を取り出して今にも呼び出そうとしたひとみを、下柳はあっさりとめる。
「なんでよ?」
「ちょっとな……」
コースターの上にグラスを置いたバーテンダーに、ありがと、とにっこりしつつも、ひとみは携帯を握ったまま下柳を見た。
「何よ、もったいぶって」
このざっくばらんな歯に衣着せぬ物言いの傍から見れば大概その美貌とオーラに圧倒されるだろう今や大御所俳優山内ひとみ、その連れにしてはうらぶれたオヤジ下柳はフリーのディレクターだ。
もう何年来、下柳とはMBC時代からの悪友であり、鬼の工藤と名を馳せたプロデューサーで今や右肩上がりの青山プロダクション社長工藤を含めてこの三人は顔を合わせればおのずと飲みにいくような間柄だが、最近工藤の部下の良太がときたまそれに加わり、ひとみは良太を可愛がっている。
良太にしてはやや遠慮したいことも多々あるのだが。
「いや、工藤のことさ……」
「高広がどうしたのよ。また、新しい女でもできたってんじゃないでしょうね?」
ひとみの言葉に棘が混じる。
「……いや……そうじゃないんだが……」
下柳はよほど言いにくそうに、グラスをもてあそぶ。
「にえきらないわね」
すぱっと切れ味鋭くひとみが言いきる。
「るさいな、ちょっと耳かせ」
ちょいちょいと指を動かすと、ひとみは、なによ、と顔を寄せる。
「こないだ、花見の時、会っただろ」
「誰に?」
「センセーだよ、小説家の……」
「ああ、千雪センセのこと? それが?」
「だからよ、その………実際、この俺ですらクラッときそうなタマじゃねーか、そんなやつと工藤、その、なんだ……」
言葉に詰まる下柳の横で、ひとみはけらけら笑う。
「やーだ、ヤギちゃんまで、センセにのぼせちゃったんだ」
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