ジェンダーギャップが百位以下で、先進国などという殻を被った日本の最もくだらない歪みに押しつぶされた被害者だと、響は出て行った母親の心に今は思いをはせている。
母が出て行ってからは一度も会ったこともないしどこにいるかも知らない。
ピアノを続けることを応援してくれた祖父は好きだったが、祖母も父親も大嫌いだった。
家にいるのも嫌で早く出ていきたいと思っていた。
冷めた目で周りを見て、一人でいることを好んでいた響だが、高校二年の春、そんな響の人生観を一八〇度変えさせた新入生がいた。
井原渉。
思わずくすりと笑ってしまうような井原との出会いを、響は今も忘れたことはない。
ちょうどこんな春めいた日の放課後のことだったなと、響は晴れた空を見上げた。
音楽部の生徒たちが来る前に、少しピアノを弾いていた響は、ボールを追いかけるサッカー部員の大きな声に、気をそがれて窓辺に立った。
昨日の卒業式は雪がちらついて真冬に戻ったかと思われるような一日だったが、今日は昨日の雪がウソのように空は晴れて、春の声はすぐ傍まで来ていることを感じさせた。
走る生徒たちを見ていると、不意にあの頃に戻ったかのように思うことがある。
戻れるものならあの頃に戻って、もう一度高校生をやりなおしたくなる。
そしたらもっと、たくさん友達と遊んだりボールを蹴ったり、井原とももっとたくさん話したり笑ったり………。
あーあ、何考えてるんだ俺は。
響は自分に呆れて笑う。
と、その時。
ガッシャーーーーーーン!!!
ちょうど響が外を見ていた窓の隣の窓ガラスを突き破ってサッカーボールが飛び込んだ。
響が驚いて固まってしまったのは、ボールが飛び込んでガラスを割ったことではない。
まるであの時と同じことが目の前で起こったからだ。
「うっわー、すみませーん!」
走ってきて窓の外で響を見上げた生徒が大きな声で言った。
響は一瞬、井原がそこに立っているかのように錯覚した。
「ひええええ、すみませーん、怪我なかったですか?!」
あの時、学生服のひょろっと背の高い生徒が、真顔で響を見つめていた。
「おい、キョーちゃん! 大丈夫かよ?!」
いつのまにか教室のドアを開けて入ってきた生徒が、でかい声で響に駆け寄った。
「お…前、寛斗! 何やってんだよ!!」
我に返った響はがっしりとした体形の割に笑うと可愛いと評判の顔を見上げて怒鳴りつけた。
「いや、怪我したかと思って心臓バクバクだったぜ。どこも怪我ないな? よし!」
にっこり笑う寛斗の頭を響は手ではたく。
「あ、暴力教師はいかんぜよ」
その程度へとも思っていない顔で寛斗は言った。
「どこ見て蹴ってんだよ! 部長のくせに」
三島寛斗はこの春三年生になるが、開業医の息子の宿命で理系クラスにいる。
お調子者的なところがあるが、陽気で人気者だ。
「んなこと言ったってさ、こっち飛んじゃったんだもーん」
寛斗が軽く言い訳する。
「何が、もーん、だ。とっととこの惨状、片付けろよ? 音楽部員きたら怖えぞ」
「へーい、おい、皆、とっとときて片付けろってよ」
響のセリフに寛斗も少し焦って音楽室の前で待っていたらしいサッカー部員を呼んだ。
大きな汗臭い生徒らがわらわらと掃除用具を持って入ってきて、割れたガラスを片付け始めた。
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