誰にもやらない1

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 ゴトンゴトンと規則正しい地下鉄の音が、もたれかかったドアから伝わってくる。
 この路線もさすがに昼間はさほど混んではいない。
 駅で停車するたび、開かない側のドアのガラスを見るともなく覗き込むと、灯やホームが映し出されていた。
 そこには別の世界が広がっているようで、灯はすぐそばで揺れているのに、指を伸ばしても届かない。
 触れられないもどかしい遠さに気づかされる。
 それに似た苦い感情が不意に蘇るのを覚え、西口浩輔はちょっと息をついた。
 やがて地下鉄が次の駅のホームに滑り込むと、浩輔は改札をくぐり、地上への階段をあがってすぐ目の前にあるペットフードの会社へと向かう。
 電車の中は暑いくらいだったが、さすがに十二月ともなれば通りを刺すようなビル風が吹きすさぶ。
 葉を落とした街路樹に目をやれば、寒さが倍増するような気がして、浩輔は大きめのトートバッグを肩に掛けなおし、チェスターコートの襟を寄せた。
 浩輔が広告代理店ジャスト・エージェンシーにデザイナーとして入社してから一年になる。
 ペットフードの広告の仕事は、上司の佐々木から引き継いで半年、何やらのほほんとした性格がクライアントの女性担当者に気に入られたようで、今では浩輔のライフワークとなっていた。
 ポケットで携帯が鳴ったのは、ちょうど打ち合わせを終えて外に出た時だ。
「はい、あ、佐々木さん。C社ですかぁ? まあ、ここから近いけど……わかりましたぁ」
 携帯をポケットにしまうと、浩輔は二ブロック先にあるC社に足を向けた。
 米国の大手自動車会社の輸入販売会社C社は、ジャスト・エージェンシーの大事なクライアントであり、デザイナーとして佐々木がその仕事の大半を抱えている。
「ジャスト・エージェンシー様ですね、担当の者からこちら預かっております」
 受付で佐々木に頼まれた資料を受け取ると、にっこり微笑んでいる受付嬢に浩輔もにっこりと返し、入り口のガラス張りのドアへと向かう。
「……ゆき、何でついてくるんだ」
 男の声に反射的に振り向いた時、スーツの後姿がエレベーターに消えるところだった。
 聞き覚えがあるような気がして、一瞬足を止めた浩輔だが、ひとり笑って踵を返す。
「え………ま…さか…ね」
 そんな偶然がそうそうあるわけがないって。
 浩輔の戸惑いを断ち切るように、ポケットでまた携帯が鳴った。
「ナオちゃん? え? シュークリーム?」
 浩輔は地下鉄の駅へと階段を降りながら携帯を切った。
 今度は三時のおやつにシュークリームを買って来いという会社の女子からのお達しである。
「ったく、みんな、人づかい荒いよなぁ」
 ボソボソ呟いたものの、浩輔は電車が表参道に着くと会社の方向とは逆の出口から出て、ご指名のパティシェリーでシュークリームを十個買った。
 ジャスト・エージェンシーは表参道の駅から数分、大通りから二つ目の通りにある古いビルに入っている。
 会社の規模は小さくても居心地は悪くない。
 長引く不況に加え、代理店の未来が危ぶまれるこのご時勢に、社風はいたってのんびりだ。
 社員の出入りは多いが、中には出戻りまでいる。
 ジーンズでご出勤ってのがいーよなー。
 たまにクライアントに会う時に上着を着るくらいだし、年中スニーカーで通している。
 放っておいたら髪は肩スレスレまで伸びた。
 前の会社ではスーツに身を固め、常に緊張した毎日だったのに。
 履歴書には省いたので、浩輔が大手広告代理店英報堂の営業部にいたことも今の会社のみんなは知る由もない。
 もともとお気楽で甘えん坊な浩輔だ、こんな和やかさが自分には似合ってると思う。

 やっぱ、あの頃の俺のがおかしかったんだよな、きっと―――。


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