「失礼」
工藤は店を出て、軒先で電話にでた。
「工藤だが」
相手は知らない男だった。
「すみません、下柳さんのスタッフですが、下柳さんから伝言を預かってまして」
「伝言?」
「実は下柳さん、今外に出ていて携帯をどこかに忘れたとかで、今夜の待ち合わせの場所を変えたいって、スタジオの受付に電話をしてきたみたいで、受付の子が工藤さんに伝えてほしいと」
八時にバー『ブラン』で下柳と待ち合わせていたのだが。
「どこだ?」
「セントラルハイアットホテルの十階の、スマイルってことです。時間は八時で」
「わかった」
工藤がそれ以上何か言う前に携帯は切れてしまった。
あいつはやたら携帯やらなにやらどこかに置き忘れる。
下柳の顔を思い浮かべながら店に戻ると、「そろそろ行くよ。今夜はおごり」と紺野が言った。
「これからロケでね」
「すみません、紺野さん。今度は俺がおごりますよ」
時間にも厳しい紺野は、じゃあ、とさっさと店を出て行った。
工藤が店を出た時は、七時半を回ったところだった。
セントラルハイアットホテルまで歩いてもここからなら約束の八時前には着くだろう。
夜になっても気温が下がらない六本木は人通りが途切れることはない。
人種も国籍も違う人間たちが集う街には、またそこここにいろんな連中が屯している。
もう二十年来この街と付き合ってきた。
それにしても珍しいな、ヤギがホテルのバーとは。
ドアを開けると、客はまばらだが『スマイル』はジャズピアノが小気味よく流れる、静かなバーだった。
工藤はカウンターに座り、マイヤーズをロックで頼んだ。
まだ八時前だから、下柳はあと二十分は来ないだろう。
下柳を待ってグラスを傾けていると、「工藤様いらっしゃいますか?」と店のスタッフが言った。
工藤が立ち上がると、電話が入っているという。
携帯を忘れたといっていたから、下柳がまた遅れるとかいう電話だろうと思い、工藤は店の受話器を持って人のいないレストルーム近くへ移動した。
「工藤だ」
だが、通りの喧騒のような音はしても声が聞こえない。
「もしもし?」
電話はやがて切れた。
「何なんだ?」
仕方なく受話器をスタッフに返してカウンターに戻ると、工藤の席から一つ置いて、女が座っていた。
見るからに夜の女だろう、派手なワンピース、美しくは見えるが造り込んだ顔、年齢はわからなかった。
工藤は一瞥しただけで座り、グラスを持った。
どのくらいの時間か、わからなかった。
だが五分か、十分か、さほど時間は経っていない。
頭がぐらついた。
何だろう、と思った。
思ったあとは、記憶がなかった。
その夜、良太は『からくれないに』の撮影が行われているスタジオにいた。
撮影は朝から続いていて、ようやく終わったのは夜の十一時になろうという頃だった。
「お疲れ様です」
山内ひとみや大澤流、端田武、それに本谷和正が帰っていくのを見送った良太は、控室から出てきたアスカに声をかけようとしたところで、ポケットの携帯が振動するのに気づいた。
「はい、あ、こんばんは、お疲れ様です」
相手は小林千雪、『からくれないに』の原作者である。
今頃珍しいと、何となく胸騒ぎがした。
「落ち着いて聞けよ」
「はい? え………」
落ち着けと言われたが、千雪の話に良太は耳を疑った。
「何で……」
絶句している良太に何ごとかよくないことが起きたらしいのを察知して、アスカを伴ってスタジオを出ようとしていた秋山は良太に歩み寄った。
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