「おーや、時間ぴったりじゃないか、ガテンボーイ」
窓際のテーブルにいた藤堂は、即座にノートパソコンを仕舞い、ウキウキ気分を抑えつつ、「ちょっと、上に行ってくる」と浩輔に告げてオフィスを出た。
悠が現れたのは藤堂が銀河に上がってきてすぐだった。あれ、と藤堂が思ったのは印象がちょっと違っていたことだ。
「顔を洗ってきたね、感心感心」
一層剣のあるまなざしを向ける悠は、ダボダボのズボンではなく、Tシャツの上に長袖のシャツを羽織り、学生らしくジーンズをはいている。
「うるさい! 俺は社長と話したくてきたんだ!」
そこへ、奥の事務室から美保子が現れた。
「いらっしゃいませ。社長の和田と申します。五十嵐さんね? 学生さんかしら?」
「あっ…ども、初めまして。五十嵐悠、です。東京美術大学洋画科四年です」
いきなり美人に声をかけられ、名刺を受け取ったものの、年配の男を想像していた悠はちょっと動揺している。
「まあ、はるかさん、っておっしゃるの? ご本人にお似合いな可愛いお名前だこと」
「は…いや、あの、作品撮ったデータ持ってきたんですけど」
美保子ににっこり微笑まれ、悠はしどろもどろだ。
ぎこちなく、美保子の向かいに腰を降ろした。
ほんと、可愛いところもあるじゃないか。
藤堂はそんな悠のようすを見て、くくっと笑う。
「じゃ、ちょっとお借りするよ、データ」
藤堂は悠の持ってきたSDカードを持って奥の事務室に引っ込んだ。
あれだけ大口を叩いた悠がいったいどんな絵を描くのか、藤堂としても大いに興味があった。
「……へえ………」
画面に映し出された画像に、藤堂は思わず息をのむ。
すごい、蒼、だな。
ビルの屋上、その一角に立ち、大きく両手を広げた若者は今にも青空の中に吸い込まれそうだ。
「案外、ちゃんとしたものを描くじゃないか」
何だろう、この、そこはかとなく湧き上がる切ないような感覚は。
若い画学生の手によって具現化されたいくつかの情景に故もなく魅入られ、しばし藤堂は息をするのも忘れて画面を食い入るように見つめた。
今まで数々のアーティストの作品を見てきた藤堂だが、その中でも悠の技術が群を抜いていることは一目瞭然だ。
悠の絵は難解な抽象でも、稚拙な技術を露呈するものでもない。
見事なまでに三次元を平面に映し出す目を悠は持っていた。
無論、絵は技術だけでは見る者に何も訴えないが、悠の絵には技術以上に藤堂の惹かれるものがあった。
それは色なのかマチエールなのか、描かれた被写体なのか、或いは情景からくるものなのか、とにかく何かが心に引っかかる。
早く実物が見たいな。
「あら、とてもステキだわ。このモデルはあなたご自身?」
美保子も藤堂が持ってきたタブレットの画像を見るや、たちまち気に入ったようだ。
「テーマは何?」
「テーマって、あんまり考えてなくて」
藤堂の質問ににべもなく答える悠に、藤堂は苦笑する。
タイトルも「作品1」「作品2」と具体的な説明もない。
昨今の、作品以上に雄弁なアーティストたちとは対照的だ。
「しいて言うなら、蒼」
「蒼?」
藤堂は悠の言葉から、青でなく蒼の文字を連想した。この深みを表すなら、蒼、だろう。
「じゃあ、十二月の第一週の金曜日からでよろしいわね」
有名なパティスリーのケーキを二つ食べて口元にクリームをつけた悠に、美保子は笑みを浮かべながら言った。
美保子はもうすっかりその気になっている。
「では木曜日に搬入、翌週の水曜、五時以降に搬出ということでいいね。もう一ヵ月もないが、作品はもう準備ができているのかな?」
「今、制作中です」
悠はどうしても藤堂に対しては仏頂面になるらしい。
「間に合うのか? それで」
「間に合わせる!」
悠はむきになって言い放つ。
「まあ、日がないから、この絵の中からこちらで選んで広告や案内状を作るが、いいね」
「…いいっす」
「表現力は問題ない。あとは本人の経験値、ってとこかな、ハルカちゃん」
「ハルカちゃんとか、言うな!」
にっこり笑う藤堂をきっと睨みつけ、悠は拳を握り締めて立ち上がる。
「じゃあ、よろしくお願いします!」
「ああ、それから」
決闘でも申し入れるかのように挑戦的な態度の悠に藤堂が声をかける。
「この契約書にサイン捺印、それと連絡先、電話か携帯の番号聞いてなかったね。昨日は公衆電話だったみたいだから」
「今、印鑑持ってないし、それに俺、電話も携帯もないから、高津の携帯にお願いします」
差し出された書類を仏頂面のまま悠は受け取った。
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