五時を過ぎてからも、ドアが開くたびに、涼しいというには程遠い、じめついた生ぬるい空気が流れ込んできた。
一番忙しい昼過ぎから二時間ほどは、紀子の代わりだと彼氏の克典が来てくれたのだが、ありがたいことに今日はさほど混みあうこともなく一日が終わりそうだ。
朝から今一つ調子が出ないし、約束などバックレたい気分だが、相手がみっちゃんとなれば話は別だ。
しかも意味深な言葉を残して行ってくれた。
みっちゃんのやつ、喰えない性格に磨きがかかってないか?
おそらく、豪のバカは、またテレビとかネットとかに錯綜している情報をまたご丁寧に見て、余計なことを山ほど考えて悶々としているに違いない。
ったく、あんな風に果てるまで好き勝手させてんのに、わかれよ、いい加減……
お前を好きじゃなきゃ、あり得ねーだろ!! バカ!
浴びせられたキスの数はうっとおしいほどで、朝までしつこく元気を離さなかった豪に心の中で毒づいた元気は、知らず頬が火照り始めるのを何とか振り払い、今入って来た客のオーダーを取りに行くべく、水を注いだコップをトレーに乗せた。
「カフェオレとモカお願いします」
窓際のテーブルに落ち着いたのは見覚えのある高校生カップルだった。
はっきりした声で元気に告げた少女は、髪はポニーテール、スカートも長過ぎず短か過ぎず、セーラーカラーにきれいに結ばれたリボンは優等生を絵に描いたような女子高生で、白い半そでからのぞいた腕は細く、眼鏡のある顔は高三にしては幼く見える。
彼女が高校の部活の後輩にあたることを、元気は、この店にたまに二人で寄るようになってから声を掛けられて知った。
部活といっても当時元気が活躍していたサッカー部やスキー部といったあの高校にしては華々しい体育系の部活ではなく、ちょっと名前を貸しているだけと思われていた文芸部のことである。
同級生に引っ張られて音楽部にも当然のように在籍していたが、部活以外でもバンドを率いてちょこちょこライブなどをやっていたし、その外見と相まって小さな街のことだ、校内外に名前と顔が知られていた元気だが、元気の性格上籍を置くとすればやりたいから活動していたのである。
今思うとよくそんなにあちこちよくやっていたよなと、若さゆえの自分に呆れるのだが。
「今日は登校日かなんか? まだ夏休みだよな?」
カフェオレとモカが入ったカップをテーブルに置きながら、元気は尋ねた。
「今日は秋に出す『久遠』の編集会議です」
少し頬を赤らめながら少女は答えた。
「へえ、だって君ら三年だろ? 夏期講習とか忙しいんじゃないの?」
「でも『久遠』は今年で百号の記念号だから気合入ってて、私らも顔出してきたんです。すごいですよね、ほぼ年一回か二回発行だからもうずっと脈々と続いてるってことで。元気さんの随筆もちゃんと三回載ってましたよ」
今度は元気の方が顔が赤くなりそうだった。
「いや、随筆なんてもんやないし、俺の文なんか読まなくてもいいって」
「でも、華ちゃん、いくら歴史があるっつーたって、『久遠』とか、ダッサぁ。もっと今にあったタイトルにしたっていんじゃね?」
二人の会話に少女の向かいに座る少年が割って入った。
「ダメだよ、サムちゃん、歴代OBが許すはずないじゃん」
茶色がかった髪といい、ピアスといい、このサムちゃんなるちょっと軽そうなチャラ男くんが華ちゃんの彼氏だというのが、傍から見ると意外な組み合わせなのだ。
サムちゃんの言うところによると、元々はご近所の幼馴染で、色々な女子とつきあったもののやっぱり華ちゃんが好きだと告ったのが、この春のことらしい。
二人は一年の時から文芸部員で、夏休み前に引退するまでは華ちゃんが部長でサムちゃんが副部長。
華ちゃんの志望校が東京にある難関の医学部であるため、サムちゃんも東京の有名私大を受けるという。
二人が末永く続けばいいけどね。
可愛いカップルだと応援しつつも、ついそんなオヤジフィルターで見てしまう自分を、元気は嗤う。
高校時代からの付き合いで結婚しましたなんて話もたまに聞くが、まあ大抵は進学や卒業を理由に別れるかそのままフェイドアウト。
卒業して続いたとしても、モラトリアムから下界へ出てみるとその広さや人の多様さを知らされ、ましてや田舎から都会へ出て行ったりした日には、それまで自分がいたところが、或は周囲の人間がひどく色褪せて見えたりする。
それが錯覚と気づく頃には、何もかもがもう思い出になってしまっているのだ。
元気にも卒業イコール別れの経験があった。
「この詩、宮澤検事補ってこれ、元気のことでしょ?」
二年の梅雨晴れの放課後、元気はたまたま部室で季刊誌の編集を手伝わされていた。
当時の文芸部長は美人の才媛、三年の向井聖子と言った。
唐突に指摘されて、元気はちょっと驚いた。
実は華ちゃんに言われたように岡本元気の名では随筆のようなものを書いていたのだが、当時よく見ていたアメリカのクライムサスペンスに検事補がよく出てきて、好きな作家の宮沢賢治をもじった宮澤検事補などという深い意味もないペンネームで、別に詩を書いていた。
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