三号に描かれたのはひまわりで、この店では初めて風景画以外の絵となるが、他の風景画と空気感が同じである。
「いいなあ、これベネチアの匂いがする」
「さすが、響さん、感覚的! これどの絵と取り替えたらいいと思います? これ以上飾ると窮屈そうだし」
「そうだね、せっかくだから、メインに飾ったらどうかな、その二枚と取り替えてみたら」
響が紀子と絵の飾りつけに行ったのを見計らって、井原は元気に、「何であんなこと言ったんだよ」と突っかかる。
「お前が秀喜の十年愛を羨ましそうに話してるからさ。なんだ、着々とお前も結婚準備体勢に入ってるんだ? 荒川ってあの美人先生だろ? だから引っ越しか」
元気はフンっと鼻で笑いながらしれっと言った。
「なわけないだろ! 大いなる勘違いだ!」
井原は拳でカウンターを叩く。
「だからカウンター壊すなって」
井原は後ろで紀子と絵の位置がどうとか話している響をチラリと見た。
「あああ」
深くため息をついて、井原はぼそぼそと続けた。
「一度振られてるんだよ、今度こそと思って外堀から埋めようと……」
「そんな悠長なことやってると、横からかっさらわれるぞ」
元気に脅された井原はウっと言葉に詰まる。
「くっそ! 冗談じゃない」
また井原は拳でカウンターをドンと叩く。
「だから、カウンター壊すな」
そんな井原の葛藤も知らぬげに響は絵を飾るのに専念している。
「あ、もちょい右あげて、あ、そうそう!」
紀子の指示に響は額を少し上げてフックを留めた。
「あ、いいじゃん、これ、俺も欲しいな」
紀子と並んでベネチアの絵を眺めながら、響が言った。
「ちょうど浸水してる頃に行ったことがあって、でも観光客も街の人も平気で歩いてるし、俺はひざ下まで水に浸かっちまって、早々にホテルに逃げたよ」
「他にもあちこち行ったんでしょ?」
「うん、ヨーロッパ中ってくらい、あちこち演奏旅行した。冬のノルウェーとかロシアの寒さって半端なかったな」
「わあ、あたしも行きたーい」
井原の耳にそんな二人の会話が聞こえてくる。
ベネチアの絵の横には、明るいひまわりの絵が飾られた。
六時を過ぎるとあまり客も来ないのだが、ドアが開いて、観光客らしき二人連れが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
元気が対応すると、紀子はそそくさと取り替えた絵と、飾り付けた絵の箱をまとめて持ち上げようとした。
「こっち持つよ。傷がつくと大変だから」
外したサムホールの三枚の絵を大事そうに響が掲げた。
二人がカウンターの奥へ入っていくと、井原は立ち上がってムッとした顔のままコーヒー代を置いた。
「よし、俺も東にヨーロッパの絵、もらって飾るぞ!」
「何をお前張り合ってんだよ」
オーダーを取って戻ってきた元気が笑う。
「紀ちゃん情報だが、既に告ったやつがいるみたいだぞ?」
続けてボソリと元気が声を落として言った。
かっさらわれる…………!
井原はまた拳を固めた。
「カウンターは殴るな」
そこへ紀子と響が奥から出てきて何やら笑い合っている。
「響さん、家まで送ります」
妙に強張った声の井原をチラリとみた響は、「ここからなら歩いても行ける……」と言いかけたが、「送ります」と井原に再度言われて、「あ、そ」と響は頷かされた。
「お代はもういただいてます」
にっこりと笑って元気が言った。
「おい、たまには俺におごらせろよ」
「行きましょう」
響に答えもせず、井原は響の腕を取ってドアを開けた。
響は井原のようすが何となく変だとは思っていた。
井原は黙って駐車場まで歩き、後ろからついてきた響が助手席に座ると、らしくもなく黙りこくったまま、エンジンをかけた。
響の家の前まで来ると、井原は車を停めた。
「じゃあ、お疲れ様」
シートベルトを外した響が降りようとドアに手をかけた途端、井原がまた響の腕を掴んだ。
「井原?」
「………さっきの………違いますから」
井原は固い声で言った。
「え? 違うって何が?」
「荒川先生と俺は付き合ってなんかいないんで」
井原は吐き出すように言った。
「え…………あ、そう、なんだ」
響は井原を見つめた。
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