「え、そんなあ……元気ってば、太っ腹! じゃ、豪もホテル泊まればいいよね」
紀子の発言にまたしても東が一人俯いた。
「じゃあ、早速、俺、ホテル見繕って予約入れとくわ」
「え、おい、豪」
これはもう、何が何でも一緒に行くという意思表示だ。
豪はバックパックをひょいと肩にかけると、スタスタと店のドアをくぐる。
「あ、元気、今夜、路傍、な」
豪が振り返ってドアから顔を覗かせた。
「あ、ああ」
何だか否応なく、という感じだ。
路傍でちょっと食べて飲み、そこから歩いて豪の家に向かう、といういつものパターンだろう。
まあ、喜んでいるのは豪だけではない、のだが。
「んじゃ、俺、帰るわ」
東が立ち上がった。
「おう、これから教室か?」
「そ、貧乏暇なし」
チャリンと東が小銭を出した時、また、豪が舞い戻った。
「あのさ、元気、うちの親に、元気のこと紹介するって言ったから」
一瞬、こいつ何を言っているんだ、と元気は意味を把握しかねた。
「何?」
「俺だって家族に紹介くらいできる。じゃあ、そういうことで」
スタスタと出て行く後ろ姿に、最初に反応したのは紀子だ。
「うっわー、何、元気、いよいよ? おとうさんおかあさん、この人が俺の……」
「バッカ、ダチだって紹介くらいする……」
あのバカ、みっちゃんから、何を聞いたんだ?
「いや、しかし、ダチだったら、わざわざ宣言してかないだろ?」
帰りそびれた東が口を挟む。
「うっわ! いよいよ! うっわ!」
千葉行きと豪の妙な宣言のせいで、ひとり有頂天になっている紀子を元気は眉を顰めながら見つめた。
大方、一平が元気を家に泊めた朝、両親に紹介した話でも聞かされて、豪のやつ、また敵対心燃やしたくらいが関の山だろう。
大体、紹介するっつったって、あいつんち鎌倉だったか? そんなところまで行く余裕はないし、何を一人で舞い上がってるんだか。
第一、なんつって紹介するんだよ?
親なんか一平の親みたくフラットに構えてるとは限らないんだぞ?
俺はもう金輪際とにかくゴタゴタはごめんだからな。
元気はしばし腕組みして、何だか足取りも軽く出て行った豪の残像を睨み付けた。
鼠色の雲がいつのまにか空を覆いはじめている。
何やら波乱含みの夏の伽藍は、まさしく台風にでも巻き込まれそうな様子を呈していた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ざあっと夕立が通り過ぎて行った午後五時半を回った頃、伽藍にひょっこり東が顔を見せた。
「元気、あのお誘いってまだ有効?」
カウンターに座りしな、東が聞いた。
「どのお誘いだ? 記憶にないぞ」
「またまた、昨日言ってたろ? 週末に東京に行くってやつ。定員一人くらい平気なんだろ? 俺も乗せていけ」
それを聞いて元気は眉根を寄せて、あからさまに不機嫌な表情を見せる。
「みっちゃんのやつ、人を勝手にスケジュールに組み込みやがって。あれだって、タダシが入院するしないに関わらず最初から決めてたに違いないんだ」
カップを扱う手に思わず力が入りそうになる。
「まあまあ、どうせ行くんだろ?」
元気は東のいつものブレンドをカウンターに置いた。
「お前、教室があるって言ってなかったか?」
「あれからはたと、東京美術館でクリムト展やってるのを思い出したんだ。結構大々的にやってるらしいし、久々だから見に行くことにした。生徒には他の日に変更してもらったからOKだ」
小太りになってきた身体をゆすりながら、東はコーヒーをすする。
「クリムトって、お前あんなん好きだったか?」
「あんなんもこんなんも、あの官能美、嫌いな男はいないだろう」
嬉々としてのたまう東に、元気は小首をかしげた。
「官能美ってより、俺からするとクリムトって、あの時代のヨーロッパの重苦しい呻きみたいなものをどうしても考えてしまうんだよな」
東が元気とつるんでいるのは、もともと誰もが感じるようなことを一人別次元の感覚でみてしまうようなところのある元気に興味があったからだ。
「難しいことはいいんだ、とにかくクリムトみたいし、しばらく銀座の画廊もみてないしな」
「まあ、足代は浮くんだ、いんじゃね? どうせ豪が車出すってんだから」
元気はどうでもよさげに言い放つ。
「いや、ガソリン代くらいは」
「あいつが勝手に行くって言ったんだから、大船に乗った気でいればいいさ」
どうやらまたあのあと豪とひと悶着あったらしいと、東は邪推するが、どのみち痴話げんかだからと突っ込む気にもならない。
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