好きだから26

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「あ、直ちゃん、はよ行きたいんやろ? もう上がってええよ、お疲れさん」
 本気ですごく好きなライブでも、これは佐々木について行った方がいいのではと半分思い始めていた直子だが、佐々木にそう言われてしまうと、言うべき言葉が見つからなくなる。
「ほな、腹も減ったし、藍屋でも行く?」
「そうだな」
 普通の居酒屋よりは格上だが藍屋と聞いて、直子は少し胸を撫でおろした。
 少なくともホテルのレストランなどではなかったからだ。
 直子は先にオフィスを出たのだが、それでもまだ元熊五郎のことが気になって仕方なかった。
「植山と明らかに違うのは、少なくとも佐々木ちゃんがあの熊五郎を嫌いじゃないってことよ!」
 歩きながら直子は携帯を取り出した。
「どうしよう、良太ちゃん、佐々木ちゃんが!」
「佐々木さんが? 何かあったのか?」
 急に電話をかけてきた直子にいきなりそんなことを言われ、電話の向こうの良太もいつぞやの植山騒動の不穏な成り行きを思い出して緊張した声で聞いてきた。
「うーん、ごめん。何かあったってわけじゃないんだけど、やっぱ心配なのよ、何か胸騒ぎがして」
「直ちゃん、ちょっと心配し過ぎかもだよ。リラックスして」
 良太のほやんとした声に、深呼吸した直子は少し緊張を解いた。
 携帯を切って歩き出した直子は暮れていく空に目をやった。
 夕方になって気温が下がったオフィス街は帰宅を急ぐ人々が行き交い、すっきりと雲一つない深い紺色の空を背景に煌煌とした満月がビルの間から顔を出していた。
 
 
 
 
 藍屋は新宿通りから二本ほど入った通り沿いにあるオフィスビルの一階にある居酒屋だ。
 この辺りはマンションが多く立ち並び、夜ともなると人通りも少ない静かな佇まいである。
 全国から集めた日本酒が置いてあり、メニューもしっかりした洋風でどちらかというと大人設定の店だから、騒いでいる学生などは見当たらない。
 テーブルもパーテーションで区切られており、居酒屋といっても落ち着いて飲むには居心地がいい。
「んじゃ、ま、再会を祝して!」
 生ビールのジョッキを合わせると、稔は豪快に半分ほどを飲み干した。
 ポカリなどのペットボトルがジョッキに代わっただけで、余りにも昔と変わらない稔の印象に、佐々木は思わず笑った。
「何だよ」
「いや、稔さん、ほんま、ガキ大将のまんま、や思て」
「おいおい、これでも世界中のヤバいとこあちこち渡り歩いて、生きるか死ぬかみてぇな感染症にかかったりよ、それなりに艱難辛苦をなめたりしてきたんだぜ?」
 そう豪語した稔は、きたきた、とイベリコ豚のローストポークから海鮮サラダからサーモンのカルパッチョからたったか二つの皿に分けると、ガツガツと平らげる。
「それはわかるけどな~」
「お前こそ、個人オフィス持つほどになったってのに、見た目はあんましかわらねーじゃねーか。ほんとに結婚なんかしとったのか?」
「や、俺、年明けの一月でもう三十四やから、稔さんこそ、何で奥さんに逃げられたん?」
 そこでビールを飲み干した稔は、スタッフを呼んでボトルワインを頼む。
「お前、逃げられたの前提かよ」
「あれ、違ごた?」
「まあ、間違いじゃねぇがな。自分の子供が熱を出してるのに、あんたはどっかの国のわけわからない未開の地に行くのかって、ワイフに責められて」
 なるほど、と佐々木は頷いた。
「確か奥さんもお医者さんやなかった?」
「ああ、学生ン時知り合って、ええとこのお嬢でな。ま、たまに息子と合わせてくれるだけマシ?」
 佐々木は苦笑した。
「医院の方は、お姉さんが継ぐんかと思うてたけど」
「皐月? あいつ、急にへき地医療に目覚めてな、ちょうど俺が帰国したのをいいことに、とっととどっか南の島へ行っちまって」
「はあ」
 佐々木はあまり顔はよくは覚えていないが、ただ姉弟ともにやることが豪快で、はっきりした性格だったと子供心に感じていたその面影を頭に思い描く。
「オフクロは別に俺らにあとを継げとかいわねぇし、浮気した婿養子を叩き出して、一人で気楽にやってきた医院で、まあ、自分の代で終わってもよしと思ってるみたいで、俺がまた海外行こうが何も言わねぇよ」
 稔はいっそさばさばと口にする。
「そうなん?」
 手塚医院は確か明治あたりから代々続いてきた医師の家系だと聞いていた。
「まあ、俺がいるうちにとかって、お袋、あちこち旅行行きまくってるけどよ。さっきギリシャから帰ってきた」
「そら、お元気で何よりやな」
 同じ七十代でも、久乃は一人でも動ける人だろうが、口と矜持は負けないかも知れなくても、淑子は誰かが傍らにいないと生きていけない人間だ。
 佐々木自身も淑子を置いて家を出るとか、考えたこともなかった。

 


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