「でも、先生、足、だいぶ良くなってきたみたいでよかった。まだ正座とかはできないから、お稽古の時もまだ椅子だけど」
佐々木の電話が切れると、直子は声高に話しかけた。
「ああ、ほんま、直ちゃんのおかげやな」
飲みに行った夜、佐々木を襲いかけた稔は、淑子を連れて病院を訪れても、悪びれもせず今まで通り佐々木に接している。
自分の行動に対して揺るぎない信念があるんだろう。
あの人はほんま、おたおたするとかないんやな。
俺みたいに。
「せや、食事、行きたいとこ決まった?」
「お食事は、佐々木ちゃんの仕事が落ち着いてからでいいよ。それよりさ、気分転換、してきたら? いつものお散歩、はちょと寒いか。うーん、何か、音楽を聴くとか」
「ハードロックとか、たまにええかもな」
佐々木はつとめて笑う。
「もう、真剣に言ってんのに。それにせめてヘビメタと言って。あ、絵の展覧会とか、佐々木ちゃん、行きたいのあるって言ってなかった?」
「ああ、そやった、ボッティチェリ展、上野でやってるんやったな」
フィレンツェには何度行っても、ボッティチェリの新しい発見がある。
ボッティチェリは佐々木の絵に対する憧憬の原点でもあった。
「ど素人はルネサンスの巨匠を語るのにレオナルドとミケランジェロ、ラファエロとかしか知らない、ルネサンスと言ったらボッティチェリに決まってる……って、前、怒ってたじゃない」
苦笑して佐々木はパソコンの電源を落とすと、すくと立ち上がった。
「トロトロやってても拉致があかんし、想いたったらや。まだ間に合うやろ。ちょっと上野行ってくるわ」
「うん、今日、外、かなり寒いからあったかくしてって」
「らじゃ!」
ダウンのロングコートの上にマフラーをぐるぐる巻きにしてから、佐々木は、そうや、と直子を振り返る。
「帰り、『やさか』に寄ってお菓子買ってこか? 明日のお茶までくらいもつやろし、稽古にも使える」
「わ、研二さんとこ? 楽しみ!」
「来年の綾小路さんのイベントで、やさかさんとこのお菓子使おう思てんね」
「それ、絶対、いけるよ! なんかさ、一見怖そうなのにあったかいっていう、研二さんの人柄がまんま出てるよね、やさかのお菓子って」
「なるほど」
二月のスキー合宿で顔を合わせてから、有楽町にある店に何度か寄ったが、研二は佐々木が行くと必ず顔を出してくれた。
小林千雪の幼馴染だという研二は、口数の少ない、確かに強面だが、実に気配りの優しい男のようだ。
柔道をやっていたという大柄な体躯からは想像できないような、きれいな和菓子を器用に造る。
そういえばバツイチ同士ですねなどと、そんな話もしたが、あんな優しい男にもいろいろあるのだろうか。
つらつら考えながら半蔵門まで歩き、半蔵門線の永田町で銀座線に乗り換えて上野で降りると、佐々木が東京都美術館に着いたのは四時半になろうとしていた。
永田町から乗り換える赤坂見附までちんたら歩いていたので時間がかかったのだろう。
何とか入場に間に合ったが、約一時間程しかないと、少し足を速めた。
中はごった返すほどではないが、結構人が入っている。
展覧会が始まった頃は、有名な作品展と聞くやにわか芸術ファンとなる日本人の常らしく、結構な賑わいだった。
混雑が苦手な佐々木は、それをたまたまニュースなどで見て、先送りにしてしまっていた。
どのみち、『プリマベッラ』や『ヴィーナス誕生』などの大作は来ないし、これもボッティチェリなのかというような作品を集めたのだろうが、それでも好きな絵はいくつか来ているようだった。
美術史家らはボッティチェリやレオナルドなどの生涯をああでもないこうでもないと、絵や残っている書から想像をたくましくさせるが、ボッティチェリの人となりを探ろうとして、遠近法を度外視しただの、サヴォナローラに傾倒して人生を終えただの、勝手なことを言いやがってと思う。
佐々木にとっては絵そのものが全てだ。
敢えて言葉での説明などどうでもよかった。
いずれにせよ、五百年以上も前の話で、それが事実かどうかなど証明することなどできないのだ。
そういう考え方は友香とも一致していた。
フィレンツェを二度目に訪れた時は友香と一緒だった。
もともとボッティチェリが好きだというので話が弾んだのが、付き合うきっかけだった。
レオナルドなら、ベロッキオの弟子時代に描いたとされる天使の絵が好きだということでも意見が一致した。
こうしてボッティチェリの作品を観ていると、古い昔のことまで思い出してしまうのだが、以前よりは楽しく思い出せるようになったのは、二月の個展で友香と再会して何のわだかまりもなく話すことができたからだろう。
けれど、もし沢村と出会っっていなかったら、あんな風に友香と話せたかどうかは疑問だ。
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