霞に月の56

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 JR新橋駅と有楽町駅を繋ぐ線路の高架下は今夜も行き交う人で賑わっている。
 通称コリドー通り、飲食街が立ち並ぶそのまた裏通りでは、某クリニックの外観を借りて宇都宮演じる医師椎名尊が院長を務める椎名医院として、『コリドー通りでよろしく』の撮影の準備が進んでいた。
「おう、なんだ、今夜もしけたツラしてやがんな」
 工藤を見た途端、脚本家の坂口が笑いながら声をかけた。
「あんたみたいに年がら年中一杯機嫌でいられませんよ」
「フン、良太ちゃんは?」
「別の撮影で忙しいんです」
「ふーん」
 こうして良太は大御所と呼ばれる坂口にも覚えめでたく、スタッフからも慕われ、何より俳優陣からも受けがいい。
 いずれ今の会社を良太に渡して、秋山をアスカと独立させることを考えていたが、もし仮に会社を辞めたとしても、良太がこの仕事を続けていきたいと思っているのなら、起業するという手もある。
 すっかり業界人なはずなのに、自分をしっかり持っていることだけでも十二分にやっていけるはずだ。
 今の会社を秋山に渡せばいいだけの話だ。
 俺がくたばったら、あいつらにしてやれるのはそのくらいしかないからな。
「ねえ、ちょっと、聞いてる? 高広ってば」
 工藤はハッとして顔を上げた。
「何? ボーっとして悩みでもあるの? 全然上の空じゃない」
 向かいに座る香坂が心配そうに聞いてくる。
 そうだった、と工藤は我に返った。
 あれからヨーロッパブランドのビルの十階に入っているフレンチレストラン『リヨン』まで歩いて着いたのは八時を十分ほど過ぎたところだった。
「来てくれたんだ?」
 スタッフに案内されて店内に顔を出した途端、香坂がにこやかに手を振った。
 あまりこってりしたものは食欲がわかなかったものの、コースは魚料理を選んで、ワインで乾杯をした。
 それから、大学進学とともにアメリカに渡って医師免許を取り、やがて法医学の道に進んだ経緯から、近年日本からアメリカの支社に来たという三十代の男と付き合ったのだがプロポーズされたもののすぐに返事はできないから一緒に住んでみようと提案して二人で住み始めてしばらくすると、司法解剖などでしょっちゅう家にいない香坂に、最初は家事も分担と言っていたのが、料理はしても洗い物はそのまま、洗濯物はためるだけ、挙句には家事は女の仕事だろうなどと言い出す始末で、かつ自分の年収がいかに多いかを自慢して香坂をマウントする気満々のモラ男だというのが判明したので、家から叩き出した、という顛末までを香坂は笑いながら話して聞かせた。
 適当に相槌を打っていたものの、いつの間にかまた良太のことを考えていた工藤は、「いや、仕事のことでちょっとな」と曖昧に答える。
「何か随分忙しいのね。私も人のことは言えないけど、向こうに比べたら天国よ」
「そうか」
 工藤は残っていたワインを飲み干した。
「それで? 今付き合ってる彼女とかいるの?」
「いや……」
「何か消化不良な返事ね。指輪してないから結婚はしてないよね?」
「結婚なんてのは俺からほど遠い言葉だな」
「まだヤクザな伯父さんのこと気にしてるの? だって縁切ってるんでしょ? 高広は高広じゃない」
 工藤は苦笑した。
 高校時代も似たようなことを香坂に言われた覚えがあった。

 


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