そのあり得ないことはハロウィンの一夜限りのラブアフェアに終わらず、未だに現実として歴然と、仕事以外の佐々木の大部分を支配していると言っても過言ではない。
沢村のことは、初めは鷹揚で達観している大人で、佐々木を今の仕事に引き込んだジャストエージェンシーの社長春日のようにも思っていたところが、一歩踏み込めば何のことはない、時折駄々こねする幼児かというようなところもある傲慢でわがままなおぼっちゃまだった。
でなければ、佐々木が税金対策で売ることにした土地を知らないうちに沢村が買い、しかも今度はそこに家を建てるとか、それこそあり得ないだろう。
土地の件については、良太や直子やほかの面々も巻き込んで一旦は決着をつけたものの、家を建てる云々についてはまだはっきり当人から聞いたわけではなく、たまたま耳に入ってしまったことだった。
無論土地を買った者がそこに何を建てようとその人の自由なのだが、佐々木にとってはその人間が誰なのかが重要な問題なのだ。
「ったく、何を考えてんのや、沢村のやつ」
ついつい歩きながら口にしてしまう。
佐々木のこれまでの三十年余りの人生は、母親は厳しかったものの、地主の家に生まれたというだけで商才もなく、病弱な割に女癖が悪く、妻の目を盗んで、佐々木が中学に上がるか上がらないかのうちに亡くなる寸前まで離れに女を連れ込んで遊び暮らした父親ののらりくらりとした性格を受け継いだらしく、どちらかというと緩やかな時間を生きてきた。
父親も趣味と言えば絵を描くことくらいだったようだが、佐々木の感性は幼い頃から秀でた片鱗を現し、小学生の時に描いた風景や人物画はただ技巧だけでなく教師たちを唸らせるものがあった。
その感性は母親から厳しく習得させられた茶道においても遺憾なく発揮され、その所作の秀麗さは母親譲りの容姿ともあいまって周囲を静まり返らせたものだった。
若い頃はさぞ美しかっただろう、いや、今でも十二分に美しいのだが、母親の美貌を受け継いだ佐々木には、親衛隊やらストーカーやらがいたという話はまんざら嘘ではなく、だがおっとりとゆったりとした性格ですんなり成長し、似たような世界観を持ち絵を描く友香と出会い、結婚した。
だがそんな緩やかな人生に唐突に訪れた歪みは友香との別れだった。
喧嘩になったとか、他に誰か好きな相手ができたとかではなかった。
厳格な母親はことあるごとにうるさかったが、友香は素直に受け入れて頑張っていたし、もとより天然な友香と母親の間に軋轢があったわけでもない。
付き合っていた頃からいつも仲が良く、穏やかで幸せな日々を過ごしていた。
少なくとも佐々木はそう思っていたのだが。
彼女の中で徐々に育っていたのは佐々木を失うことの怖れだった。
「ダメなの。周ちゃんのそばにいると、誰かが周ちゃんのことさらっていっちゃうんじゃないかって、そんなことばっか考えて、絵も描けなくって、何も手につかなくなっちゃうの。だから、私、周ちゃんの傍にもういられない」
結局、佐々木は彼女がはまり込んだラビリンスから彼女を連れだすことはできなかった。
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