さやかは元英報堂の同僚だが取締役の娘で、藤堂や河崎とは大学時代からのつきあいになるが、二人が辞めるのと前後して会社を辞め、今は通訳などをして悠々自適な生活を送っているらしい。
時々このオフィスを訪れて勝手にコーヒーを飲みながら、暇つぶしをしていく。
「義行、焼け出されたんだって?」
先日も藤堂の火事騒ぎを聞きつけてオフィスに来たさやかは、新しいネイルアートを見せびらかしていた。
「義行、冷蔵庫、いらない? どうも色がねぇ気に食わないんだ。今度持ってったげる」
藤堂にとっては有難い申し出だったが、さやかは一年も使っていないという冷蔵庫を運んできた運送業者と一緒に藤堂のアパートまでやってきて、「あら、この子、クローンじゃないわよね」などとアイちゃんを見て険のある台詞を軽く口にする腹立たしい女だ。
まあ、さやかのことなどどうでもいい。
追い詰めるつもりはなかったんだよ、悠ちゃん。
高津の部屋で寝込んでいると聞いてから一週間、ずっと連絡がない。
まだよくならないのだろうかと心配で、高津の部屋へ見舞いに行ってみようかとさえ思ったのだが、やはり自分が出て行ってまた容態を悪化させてしまってはと思うと、それもできないのである。
バイトを辞めさせたのも、悠の身体のことを思ってのことだし、ビジネス云々とまくしたてたのも、悠の意識を促すためだったのだが、それが裏目に出たらしい。
素直に受け取っちゃってたからな。
この業界にいると、いろいろと小細工ばかりの言葉に慣れてしまっているから、手加減なく口にしてしまった。
ふうーーと藤堂はまた一つため息をついた。
藤堂の意気消沈振りがわかるのか、アイちゃんも散歩の途中で何度も、くう、と主人の顔を見上げた。
煌煌と丸い月があたりを青く照らしている。
月夜の散歩の時は藤堂の機嫌がよかっただけに、ここのところ月がきれいだろうと星が瞬いていようと、藤堂の肩が落ちているのは、アイちゃんとしてもあまり楽しくないし、気になるところなのだろう。
閑静な世田谷の一角に建つ、古びた一軒家。
それが今の藤堂の住まいなのだが、相変わらず家財道具はあまり増えていない。
小さな木製の門をくぐったとたん、アイちゃんがキュワン、と鳴いて駆け出した。
「どした、アイちゃん……え……」
ドアの前に丸くなっていた黒い影が立ち上がるのを見て、藤堂は目を疑った。
「悠…ちゃん?!」
「遅い! 一時間も待った」
横柄なその口調を耳にすると、藤堂のもやもやは一気に吹っ飛んだ。
「この寒いのにどうしたんだ? 急に。ささ、入りなさい。あ、コーヒー、入れるね。こないだやっと買ってきたんだ、サーバーとフィルター。オーブンレンジも買ったんだよ。やっぱ必需品だね、何でもすぐ温められるし」
エアコンを入れてお湯を沸かし、ドーナツとおまけでもらったカップを用意しながら、藤堂は饒舌になる。
家具がないので、二人ともリビングの床に座り込んでコーヒーをすする。
「あのさ、頼みがあって」
リュックを降ろし、無言でドーナツを二つ食べ終えると、悠は徐に口を開いた。
「何だい? あらたまって」
「しばらく、ここにおいてもらたいんだ」
意外な申し出である。
藤堂は即答せず、悠を見つめた。
「そんな義理じゃないのはわかってる。でも、俺ほかに思いつかなくて。アパート借りるカネも今んとこないし。あの、掃除でも洗濯でも何でもしますから、お願いします」
いつもの生意気な態度はどこへやら、悠は床に両手をついて頭を下げる。
「それは別にかまわないけど、バイト辞めろと言った責任もあるし」
「ほんと?」
顔を上げた悠の笑顔の可愛さを見たら、誰でもダメなどとは言えまい、と藤堂は思う。
「でも、高津くんと何かあったの?」
「高津の彼女が来て、俺がいつまで部屋にいるのか、って言ってるの、聞こえちゃって」
合コンで知り合った久しぶりの彼女だと、夏休みの終わり、高津が自慢していた。
「なるほどわかった。ただし、条件がある」
「条件?」
途端に悠の顔は不安そうに曇る。
「たいしたことじゃないよ。ここで絵を描くこと」
「へ?」
「先日、大学のアトリエを見せてもらったが、君一人で使えるわけじゃないから、そうたくさんの作品、描けないだろう?」
条件、と言われ、先だって藤堂に押し倒されたことが頭を過ぎり、よもや身体を云々、なんてことだったらと覚悟した悠だが、そんな条件ならむしろありがたい。
「汚れちまうぜ、床」
「カーペットでも敷こう。それともう一つ」
「まだあるのかよ」
「当たり前だ。ただほど高いものはないって、よく言うだろう」
にやり、と藤堂は笑う。
「な、何だよ、早く言えよ」
やっぱり、もしや、と、悠は顔をちょっと引きつらせる。
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