エチュードの一番から三番を弾いたあと、響はスケルツォの三番を弾き始める。
細かな音が目に見えぬドレープを作り広がってゆく。
古いピアノは時折響の耳にかすかな歪みを感じさせるが、それもまた音の羅列に表情を与えていく。
最後の音を弾いてからふうっと息をした響は、はっと我に返った。
一瞬シーンと静まり返ったその次には、拍手と歓声が聞こえた。
「すっごーい!」
「ホンモノだーー!」
「感動です!」
「ブラボー!」
女子三名に加えて低い声が混じっている。
「やだ井原先生、目ウルウル!」
「いやマジ、よかった~」
いつの間に来ていたのか、泣きそうな目で井原が立っていた。
ほんとに、こいつは。
だから憎めないってか………。
「井原センセ、部活行ったんじゃなかったのか」
響は本気で目尻を拭っている井原にあきれた。
「ちゃんと行ってきたさ、うん、しかし贅沢だよな、片田舎の高校の分際で専属ピアニストとか!」
「なに言ってんだか。じゃあ、もう五時過ぎたし、今日はお疲れ様」
ショパンには思い出したくもない記憶がある。
あの頃、かなり真剣にショパンにのめり込んでいた。
それが、コンクールまであと数日という時に、親友と思っていたやつに階段から突き落とされた。
もし頭でも打って死んでたら、あのやろ、殺人犯だぞ!
いや、十分傷害罪が成立するだろうが、残念ながらあいつが突き落としたという証拠もないし、騒ぎ立てるのもあほらしかった。
しばらくショパンを弾くのも嫌だったのだ。
それが女子三人の何の思惑もないリクエストのお陰で今回はすんなりと弾けたことを響はありがたく思った。
「ガリレオ先生、ほんとに泣いてるし」
「でもわかる! 私もちょっとうるっときたもん」
からかわれながら女子と井原が屈託なく笑っているのを横目に、響は戸締りをして、準備室に向かう。
「響さん、一緒にか~えろ!」
女子たちに手をひらひらさせながら井原が言うと、「ガリレオ先生、小学生みたい!」とまた廊下から笑い声が聞こえた。
「歩きでしょ? 俺今日、車だから」
そう言われて響はちょっと躊躇したものの、結局は頷いていた。
「そだ、元気が、何か相談ごとがあるって言ってたし、ちょっと寄って行きましょうよ」
駐車場に向かいがてら、井原が言った。
「相談ごと? 元気が?」
何でも自分で決めてしまいそうな元気が相談とは何だろう。
響は首を傾げながらも、ジープのナビシートに座る。
「一雨きそうだな」
空はどんよりと今にも雨粒がこぼれてきそうな色をしていた。
「傘は予備あるから大丈夫」
井原は笑顔でエンジンをかけた。
車が駐車場を出る時、ちょうど職員玄関から出てきた荒川の顔がこちらを見た。
荒川とはどうなったのか、気にはなっていたが、それを聞く勇気も響にはない。
というより、俺には関係ないことだろう。
自分のことも井原には話していないのだし。
いずれにせよ、そこが線の引きどころなのかも知れない。
「井原先生、響さん、いらっしゃい!」
ドアを開けると、今日は元気よく紀子が出迎えてくれた。
「ここんとこ会ってなかったね」
「うん、ちょっと旅行行ってたんだ、友達と京都」
声をかけた響に、紀子は、はい、と小さな紙包みを響にくれた。
「お土産。こっちは井原センセ」
「え、俺にも?」
カウンターに陣取った井原は喜んで、包みを開ける。
「お、落雁だ! とハンカチ!」
「これ、何?」
井原の横で包みを開けた響は紀子に尋ねた。
「ハンカチとあぶらとり紙。きれいなお肌を保つためにはやっぱりこれ。元気とおそろよ」
「あ、りがとう」
響は黙ってコーヒーをいれている元気を見た。
「ピアノ弾く時にもいいかも」
「それはいいかもね」
「ハンカチは俺とおそろだ!」
井原はそんなことで喜んでいる。
back next top Novels
