そんなお前が好きだった61

back  next  top  Novels


 こいつらしくもなく何をそんな苦しそうな顔をしているんだ?
「響さん、告られたって、ほんとですか?」
「へ?」
 響の方に顔を向けて、まじまじと見据える井原に、響はポケッとした顔になった。
「俺が? ああ、ひょっとして、寛斗のヤツのことか?」
「寛斗って、サッカー部兼ピアノ担当のあの生意気なガキのことですか?」
 またらしくもない言い方で井原は怒ったように言った。
「あんなの、教師をからかって面白がってるだけだろ。誰が言ったんだ? そんなこと」
「いや、面白がってるだけとは限りませんよ? いや、いや、そんなことはどうでもいいんだ」
「どうかしたのか? 井原、何かお前変だぞ?」
 響は笑った。
 途端、井原は響の両肩をガシッと掴んだ。
「ずっと、響さんが好きだった。付き合ってください、俺と」
「おい、井原……お前まで人のことからかって……」
 響は笑い流そうとして、井原の顔が強張っているのに気づいた。
「いい年して、からかうとかないから」
 時間が止まったようなとはこういうことかなどと響は他人事のように思った。
 視線を外すこともできず、井原と睨み合うように動くこともできないでいた。
 あまりにも唐突で言うべき言葉もみつからない。
「なんか、もっと違うタイミングで言うつもりだったんだけど………」
 井原はようやく手を離した。
「返事はすぐじゃなくてもいい。でも、マジなんで」
 響はまだ身動きできずにいた。
 頭も働いていない。
 井原の言葉をきちんと理解できなかった。
「ゴメン、俺、下手するとこのまま響さんかっさらってどっか逃げてしまいそうなんで、すみません、とりあえず降りてください」
 言われて響はようやくハッとして、慌ててドアを開けた。
「じゃあ、また明日」
 響がドアを閉めると、早口で言って井原は車を出した。
 車が見えなくなってもしばらく、響は門の前でそのまま佇んでいた。
 響がようやく井原の告白をはっきり理解したのは、随分後になってからだった。
 思考が停止した状態で、鍵を開け、にゃー助を抱き上げてご飯をやったりしてから、着替えて生徒二人を迎えてレッスンを終えると、響は母屋のキッチンに行っていつものように遅い夕食を済ませ、食器を食洗機に入れてから離れに戻って風呂に湯をためた。
 日付が変わる頃にぼんやりと風呂に浸かり、上がってからコーヒーを入れて翌日の授業の準備をした。
 毎日のルーティンワークも一通り終えて、寝室に戻り何気なく壁を見ると、高校時代からずっとかけてあるポスターが目に入った。
 ドラクロワが描いたショパンの絵のポスターだ。
 あの頃はこの絵が何故か好きだったことを思い出した。
 井原が来た時に、「これ、いいっすね、気合が入ってて」なんて言ったんだ。
 気合って何だよ、とか俺が言ったんだったか。
 そうだった、井原がいいと言ってくれたので、そのままずっと壁に掛かっているのだ。
「井原が………」
 理解の範疇を超えたために思わずシャッターを下ろしてしまっていた井原の告白が、鮮明に舞い戻った。
「いったい、何を言ってるんだ、あいつは………」
 ずっと好きだったと井原は言った。
 それは言われなくてもわかっていたのかも知れない。
 四年後に会おうと勝手に取り付けた約束。
 SNSや動画のこのご時世に、メールですらなく週に一通は届いた井原からの手紙。
 好きだと言わずとも、十二分に伝わってきた井原の想い。
 約束は響が反故にしてしまったし、全く響が返事も書かなかったから当然だが、手紙もやがて途絶えた。

 


back  next  top  Novels