「俺が仕事でいない時、アイちゃんの散歩を頼む」
アイちゃんが、自分のことを話しているらしいと、ワン、と合いの手を入れた。
「な……ーんだ、そんなことか。任せろよ」
「何だ、まさか、身体を差し出せ、とか言われると思ったのか?」
からかい半分、藤堂が言うと、悠は本気でうろたえる。
「その反応から察するに、本当にあったのか? そんなこと。君は男の子だろ」
「……先輩んとこに転がり込んでた時、置いてやってるんだから、やらせろ、とか言われて、俺逃げ出して……」
なんてこった、と藤堂はため息をついた。
「とにかく、部屋を借りられるようになるまでいていいから、いや、そうすると、やっぱ家財道具一式、早いとこ揃えなくては」
藤堂は一人でうん、と頷く。
「明日、一緒に買いに行こう。そのくらいつきあえるだろ?」
嬉々として藤堂は提案した。
「いいけど…」
少々困惑気味な悠の反応も意に介さず、これは益々面白くなってきたな、と藤堂はにんまり笑った。
翌日、早速藤堂は車に悠を乗せ、悠の希望に合わせて電気量販店からデパート、雑貨屋を回った。
藤堂は悠のためにソファベッドを、それから自分とアイちゃんのためには座り心地のよいソファも買うことにした。
「なんだか、新婚さんみたいだな」
ウキウキと藤堂が口にすると、
「ざけたことぬかすな!」
すかさず悠が藤堂を見上げて喚く。
しかし仕事で忙しくて揃える暇がなかった、と事情を説明する藤堂に、
「え、火事で焼け出されたぁ? そっかー、大変だったんだな、あんたも……」
と悠はすっかり同情してくれている。
大学のアトリエに置いていた絵は、藤堂が手配した業者と一緒に悠が部屋に運び込んだ。
すっかりアトリエと化したリビングを見回して藤堂は満足げに頷き、早速絵に取り掛かる悠を微笑ましく見守った。
思いがけない同居人の出現で、藤堂の生活は一変した。
毎日が楽しくて仕方がない。
「うーん、誰かと暮らすのもいいもんだなー」
オフィスでいきなりの発言に、浩輔は思わず飛び上がった。
「って、藤堂さん、ついに結婚?」
「まさか。いや、ちょっとね」
にたにた笑う藤堂を、浩輔が訝しげに見つめる。
「……同棲、ですか?」
「いや、女の子とじゃないから」
「……って、男の子と? まさか?!」
「悠ちゃんだよ。部屋無くて大学のアトリエで寝泊まりしてって言うからね」
「ああ、今度個展やる学生? なーんだ、びっくりした」
そう、男の子なんだからな、悠は。
ウン…男の子なんだけどな……
藤堂は心の奥に見え隠れするものを、とりあえずおいておくことにした。
海………?
真夜中、藤堂が部屋に戻ってくると、リビングに突然海が出現していた。
たゆたう波は穏やかだが、今にもこちらにうち寄せてきそうだ。
手前の砂浜に、二人の人間が横たわり、その近くに海を見つめるアイちゃんが座っている。
え…、と藤堂は思わず足元で尻尾を振っているアイちゃんに目を移して見比べてしまう。
半端ではない表現力だけに、リアルで不可思議な空間を創り出している。
日常にはついぞ見られない情景だが、二人の顔の表情も犬さえも笑っているように穏やかだ。
部屋の中に海への入り口を創った本人は、傍のソファベッドで眠っていた。
根を詰めたのか、筆や絵の具を放り出したまま、あどけない寝顔を見せている。
藤堂はそっと毛布をかけ、しばし無防備な悠の寝顔を見つめていたが、灯りを消して寝室のドアを閉めた。
サンルーム風なリビングを、悠は随分気に入ったようである。
絵に夢中になると、ものも食べずに一心不乱に、壁の半分ほどもある大きなカンバスに絵の具を塗りつけている。
そんな悠が健気で、翌日藤堂は早々に部屋に戻ると料理に取り掛かった。
「できたぞ、ビーフシチュー」
悠は再びアイちゃんをモチーフに随分デッサンを取っていたが、どうやら構想も固まったらしく、新しいカンバスに取り掛かっていた。
何枚かの制作を交互に進めている。
「うまそー! いっただきますー」
手も洗わずに座って早速スプーンを取った悠に、藤堂が待ったをかける。
「手を洗ってからって、幼稚園で習わなかったか?」
「へーい」
唇をへの字に、悠がキッチンで手を洗う。
「待て」
「洗ったよ」
「じゃなくて、唇、絵の具がついてる」
「ああ?」
ぺろりと舌を出して悠は無造作になめようとした。
「バカ、なめるな。毒物が入ってるんだぞ。ちょっと動くな」
藤堂はついている黄色い絵の具を拭おうと、悠の唇に手をのばした。
指が触れると、悠のからだがピクリと驚いた。
親指で絵の具を拭いながら、ぷっくりとした厚めの唇が妙に可愛い、などと意図せずして心が呟くのに思わずはっと我に帰る。
なんだそれは、やばくないか! 浩輔ちゃんの暗示にかかったみたいじゃないか。
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