「もう俺はいらん言うんか?」
「そんなわけないだろ? 落ち着いて話を聞いてくれ」
ジャスト・エージェンシーの社長室で、まるで痴話喧嘩のようなやりとりがあったのは、八月も末の夜。
そろそろ独り立ちしたほうがいいだろう、と春日が切り出したのだ。
「実は、もうオフィスも用意してある。お前がその気になりさえすれば、明日にでも『オフィス・ササキ』は稼動できる。もちろん、お前一人では心配だから、アシスタントもつける」
よその会社にヘッドハントされるくらいなら独立させようというのが、佐々木を手放したくない春日の苦肉の策だった。
「お前のデスクはそのままだだし、デザイン部顧問という肩書きも用意するし、必要とあらばうちの連中をいつでも貸し出す。だが、佐々木周平を必要としているのは俺だけではない。俺が独占するには、お前は手に余るところまできている」
佐々木にとっては寝耳に水、春日の庇護のもとで散々甘やかされてきた自分がいきなりひとりで世の中に放り出されて、一体どうやって生きて行けというのか、と。
「この年で、たった一人で世間の荒波にもまれようなんて、冗談ですやろ?」
「俺も身を切る思いで決断したんだ。お前もしっかり受け止めろ!」
いにしえの熱血マンガの主人公よろしく情けない声をあげる佐々木をしっかと抱きしめる春日に、佐々木は大きくため息をついた。
「俺はぬるま湯やないと生きていかれへん動物なんやぞ」
佐々木の抗議などそっちのけでことはあれよあれよと進み、これがお前の新しい城だと連れて行かれたのは、半蔵門に最近できたばかりの六階建てビルの二階だった。
『OFFICE SASAKI』と書かれたドアを開ければガラス張りの明るいオフィスが佐々木を出迎えた。
家具やソファセットは春日がコーディネイトして、佐々木の書斎用にも十四畳ほどの部屋が用意され、壁にかかっている十五号の絵は昔佐々木が描いた油絵だ。
オフホワイトの壁には大画面のモニター、テーブルやデスク、椅子など北欧調で、落ち着いたネイビーとオフホワイトを基調とした色彩で統一されている。
広々とした空間は確かに居心地がよさそうだ。
奥にはトイレ、バスルームやキッチンの他に、手つかずの部屋も一部屋ある。
パソコンや周辺機器もスタンバイし、佐々木の蔵書や愛用のパソコンなど私物も運び込まれ、あとは本人さえおさまれば、このオフィスのパーツは整う。
「仮に、ここで俺が独立したとして、このすばらしいオフィスの部屋代、誰が払うって?」
ため息混じりに佐々木が聞いてみると、春日は「そりゃ、お前に決まってる」と即答する。
「冗談きついで、俺にそないな甲斐性あったら、とっくに…………」
「だから心配は無用だって。ゆくゆくはこのビルごとお前のもんになるんだから」
「はあ?」
「このビルのオーナーは、佐々木淑子殿」
「はあああ?」
いつの間にあの頑固で昔気質な母親を懐柔したんだ、と佐々木は脱力する。
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