「にしたって、やっぱ父さんの言う通りだったってことだな。実質的な仕事に就けないようじゃ意味がない、か」
尾上はガラス屋を継ぐべくして大学に行き、きっちり地に足をつけて仕事をしているらしい。
仕事をしているからこそ、好きなガラス工芸の仕事もできるというわけだ。
そろそろ惰性で流れのままに生きてきた風来坊な自分から脱却しなくては。
そう思いながら、この街に戻ってきた途端、流されるように講師になったり、ピアノを教えたりしている。
そんなことで、果たしてこの街で、ゼロからやり直しなんてできるんだろうか。
漠然とした不安もないわけでもないが、膝の上に上がってくるにゃー助の顔を見ていると、そんな不安もどこかに行ってしまうから不思議だ。
「なあ、にゃー助」
あごの下を撫でてやると、にゃあ、と返事をするように鳴いた。
にゃー助の顔を見ていたら、寛斗の告白を思い出した。
「ったく、十年ものの初恋なんかもう腐ってるだと?! 余計なお世話だ」
俺じゃなくて瀬戸川のことを考えろよ!
何で気づかないんだよ!
俺が彼女に恨まれるとか、それこそ十年前の二の舞とか、ごめんだぞ。
井原を好きだったあの子は、どうしたんだろう?
井原からの手紙には何も書いてなかったが。
そろそろ四月か。
俺にもみんなにも新しい風が吹くといいな。
響はにゃー助を遊ばせながらそんなことを思った。
四月に入ると、響はピアノのレッスンがない日には、車や自転車であちこち出かけていた。
遅い春の足音を感じさせる十年ぶりの郷里は妙に新鮮に思われた。
多分、それは響がいつからかピアノを弾くだけの日々を送り、街も山も川も何も目に入っていなかったせいでもあると、響にもわかっていた。
こんなにも空も空気も澄んでいたのだろうか。
まるで吟遊詩人もどきで、樹々の色や匂いや手触りを楽しんだ。
講師になって高校の教壇に立ったのは秋のことだったが、何もかもが慌ただしく、いつの間にか冬が来て春が訪れた。
尾上に感化されたわけではないが、全てが新しくなる四月からは、心機一転、響は地に足をつける努力をしようと決めた。
講師も始業式から出席するように学校側からは言われていた。
スーツも新調した。
変人と言われるのは構わないが、学校にいる時くらいは、教師らしくしようと、シックに決めてきたつもりだった。
「キョーちゃん、可愛いね、そのスーツ」
早速響を見つけて、ふざけたヤジを飛ばしてきたのは例によって寛斗だ。
やつに踊らされるな! 無視だ、無視!
午後からは入学式もあるから、せめて新入生には極力バカにされないようにしないと。
クールに、クールに。
だが、そんな響にとって突発的なあり得ない出来事が待っていた。
入学式をなんとか無事やり過ごした響が、校舎をあとにして足早に飛び込んだのは伽藍だった。
勢いよく開いたドアに、元気が顔を上げた。
「いらっしゃい。今日は早いんですね」
元気がオーナー兼マスターを務める、土蔵を改造した喫茶店は割と空いていた。
気もそぞろにカウンターに陣取った響に、「似合ってますね、今日入学式だったんだ」と元気がほほ笑んだ。
「あ、ああ。えっとブレンド」
結構冷静だと思っていた自分が、こんなにパニクるとか、思ってもみなかった。
「どうかしたんですか?」
珈琲を一口飲んだ響が、思い詰めたような顔でふう、と大きく息をついたところで、元気が尋ねた。
「井原が………」
「え?」
「井原が現れたんだ、目の前に。俺とうとう幻覚を見たのかと……」
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