マグカップにコーヒーフィルターをセットし、お湯が沸くと、元気はゆっくりと湯を注ぐ。
「キッチンとバスルーム、増築して正解でしたね」
「まあ、そっちも狭いけど」
「そりゃ、ヨーロッパ辺りと比べるとウサギ小屋かもだけど、俺からすれば十分広い」
香しいコーヒーを響に渡し、元気もその横に座った。
「ああ、いい香り……五臓六腑に染みわたる」
一口飲んで響は「入れる人間が違うだけでこんな美味くなるんだ」と呟いた。
「五臓六腑って………。ま、一応、その道のプロなんで」
元気は微笑んだ。
「じいさんの口癖。ひょっとして夕べ、俺、元気に何か言った?」
記憶が断片的に響の脳裏をかすめる。
「まあ。断崖が呼んでるとかって、電話してくるから来てみれば、いい調子で高い酒ゴクゴク飲んでるし」
響は小さなテーブルの上に置いてある酒の瓶をチラリと見た。
「高いのか? ………ううう………どうでもいいけど当分もう酒は見たくない………」
「外野なんか気にするとロクなことないですよ」
「は?」
響が顔を上げると元気のきれいな横顔のシルエットがそこにあった。
「響さんに何の非もないのに理不尽なことを言われて、引き下がっちゃダメですよ」
「……元気……俺……」
酔っぱらってどうやら昨日のことを元気に話してしまったらしいと、響はうなだれた。
「自分の気持ちにウソつくのもバツです、経験上」
「経験上?」
響はまた元気を見た。
「響さん、酔った時くらいしか、自分のホンネはかないでしょ?」
「でも俺、昨日、井原にお断りしちまったし………酒でも飲まないとって、そしたら、もう井原に会えないって思ったら、こう、断崖絶壁から落ちていくみたいな? 海の中に沈んでいくみたいな? 恐怖感半端なくて、おまけに振り返ると荒川先生の顔した魔法使いのババアみたいなのが、わあって襲ってくるし………」
「魔法使いのババアって」
荒川の顔を思い浮かべて、元気はクククっと笑わずにいられなかった。
「ドイツのどこかで、魔法使いと何たらって子供向けなのにすんげえド迫力の演劇見たことがあってさ、その魔法使いってのが、ほんと、よくあそこまで怖ろし気にってくらい……」
響がポツリポツリ語る話は元気のツボにはまったらしく、しばらく元気は笑いが収まらなかった。
「ほんといって……確かにロクなことなかったんだ……」
やっと笑いが収まった元気がコーヒーを飲み干すと、響が言った。
「俺が高校卒業するとき、井原が四年後にまたここで逢いましょうって勝手に決めて、でも俺、約束反故にした。井原がいるとは思えなくて。好きだとか思ってても結局モラトリアムの中だけのものだろうって。俺、携帯ももたなかったから井原、手紙よこしてさ、毎週毎週、今時手紙だぜ? でも井原、すごいモテ男だったし、井原がこの先ずっと俺のこと好きでいてくれるなんてないって思ってたし、返事もかかなかったから、そのうち手紙もこなくなって」
文通……………。
元気はじっと聞いていた。
かつて情報交換手段としてあった気もするが、なんつうじれったい………恋人同士で文をやりとりって平安朝だったか?
「でも返事も出さなかったくせに、俺、後生大事にそれ持っててさ、結局大学卒業ですぐにウイーンに飛んだ。ピアノに没頭してる時だけがそれこそ周りと隔絶できてよかったんだけど、人付き合いとかあまり考えなしで、最初いい奴と思ってたのに階段から突き落とされて、脚折ってコンクール出られなくなったりとか、俺、急に何もかもがばかばかしくなって、ヨーロッパ中ドサ回りやってた」
響は自嘲しつつ続けた。
back next top Novels
にほんブログ村
いつもありがとうございます
