誰にもやらない11

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 無論、後足で砂をかけるようにして逃げ去った自分などにもう用はないだろうし、意気地のない部下だと嘲ら笑ったくらいだろう。
 だが、その事実が浩輔の胸を締めつける。
 あんなに熱い思いを抱いていた人だ。
 自分から逃げたのだとしても。
 どんなに身の切り裂かれる思いだったかなんて、あの人にはわかるまいけれど。
 好きだった。
 でもそれを口にすることはできなくて。
 ちょっと寝たくらいで、恋人気取りはやめろ、ナニ様だと思ってる、そんな罵詈讒謗を浴びせられるのが関の山だった。
 逃げるしかなかったんだ。
 なけなしのプライドと、ズタボロの心を抱えて、逃げるしか……。
 気がかりは残してきた猫のチビスケだった。
 河崎のマンションで飼っていた、無垢な緑色の目を思い出すと、目頭が熱くなり、浩輔は慌ててバシャッと顔を洗う。
 ほの暗い灯りの中で、浩輔は鏡の中の成長のない子供じみた自分の顔を見つめた。
「なんて、なっさけない顔、してんだよ」
 ドアが開いたので、慌てて出ようとして、入ってきた男とぶつかった。
「すみま…」
 男の顔を見た浩輔は息を呑んだ。
「前の上司がせっかく招待してやったのに、一言も挨拶がないってのは、納得いかねぇな」
 グイと腕を掴まれて、引き寄せられる。
 急激に体温が上昇する。
 握りしめた拳が小刻みに震えている。
 その眼差しは浩輔を射抜くかのようにきつく、暗く深い陰りを湛えていた。
 怖さと同時に、掴まれている手から、浩輔は身体が蕩けるような熱さを感じて戦慄する。
「コースケ、いるんか?」
 佐々木の声がして、パッとドアが開いた。
「こいつが、何かそそうでも?」
 河崎に腕を取られたままの浩輔を見て、佐々木は眉を顰める。
「久しぶりに昔の部下と会ったんで、これから旧交を温めようと思ってね」
 そう言いつつ、河崎は浩輔の腕を掴んだまま離そうとしない。
「そうなんか? コースケ」
「いえ…あの…」
 佐々木に問われても答えるべき言葉が見つからない。
「無理強いは感心しまへんな。おいで、コースケ」
 詰りを含んだ目で佐々木はしっかと河崎を見据えた。
 河崎はようやく浩輔を離した。
「前はあなたの部下やったかも知れへんけど、今はウチの大事なデザイナーですよって」
 佐々木は念を押すようにそう言いおいて、浩輔を抱えながらその場を立ち去った。
「聞いたか? 達也。今の会社じゃ、えらく大事にされてるらしいねぇ、コースケちゃん」
 河崎がレストルームを出ると、いつの間にそこにいたのか、柱の陰から藤堂が現れた。
「特に、あの佐々木って、コースケちゃんのこと可愛がってるみたいだぜ? しっかし稀代のクリエイターが弱小会社にいるって噂には聞いていたが、モデルなんかはだしで逃げだしそうな美人だねぇ、彼氏」
 揶揄する藤堂を河崎は睨みつける。
「ま、怒鳴り散らして、強引に引っ張り廻されるよか、優しい方がいいに決まってるさ、な?」
「…っるせぇんだよ! てめーは!!」
 河崎は思い切り壁を蹴飛ばした。
「あらら、壁、へこんじまったぜぇ?」
 茶化した後、藤堂は苛立たしそうに河崎の背中に向かって呟いた。
「……ったく、肝心な時には、肝心なことも言えないで、ガキが!」
 

 


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