浩輔は河崎のニューヨーク出張中にこっそり会社を辞めた。
河崎を目の前にして、辞めます、と言う勇気はなかった。
部屋も引き払い、海外勤務をしている高校時代の友人を頼って、フィレンツェに行くことにした。
どこでもよかったのだ。
ただ、河崎から逃げられれば。
河崎もこれからは自分とのことで陰口を叩かれることもないだろう。
突然退職願いを郵送したにもかかわらず、一応、成田から会社に電話をかけた浩輔に、日頃から河崎を目の敵にしている馬場は、君も碌でもない男にいいようにされたねぇ、と意味ありげに笑っただけだった。
ところが、いきなりその電話に怒鳴り声が乱入した。
「おまえ、辞めるだと? バカもやすみやすみ言え!!」
「……藤堂さん……?」
「今、どこだ!? さっさと戻ってこい!!」
普段その口からはおちゃらけた台詞しか聞いたことのない藤堂が、本気で怒っていた。
「明日、河崎さんが帰っていらしたらよろしくお伝えください。今度はもっと役に立つ部下がつくでしょう」
「何がもっと役に立つだ。達也の留守になんて、せこいマネしやがって! とっとと帰れ!! 聞いてんのか?」
「……俺が役立たずの足手纏いだってことよく知ってんのは藤堂さんでしょう。これ以上そこにしがみついていたところで、俺の将来なんてないも同然だし……俺にもなけなしのプライドがまだ残ってたんです」
「んな小さいプライドが何だってんだ! え? 達也はどうなるんだ? 本気で言ってるのか?!」
食い下がる藤堂はなかなか切ってくれない。
「もう、時間ですから、お世話になりました」
まだ藤堂の怒鳴り声が聞こえていたが、浩輔は静かに受話器を置いた。
最後に話したのは藤堂だったっけ。
飼い犬に手を噛まれるほどの価値も認めてなかったくせに。
フィレンツェでは、友人の高木護の部屋に居候させてもらい、子供の頃から絵を描くのが好きだったことを知っている高木の勧めで美術学校に通った。
当初は、地に足がついた仕事につけというのが父親の口癖で、浩輔も経済学部に進んだわけだし、デザイナーになろうなどとは夢にも思っていなかった。
ただ、英報堂での経験が、浩輔に、デザインや絵などに目を向けさせた。
ルネッサンスの大芸術家達の残した作品群に触れ、歴史そのもののような古い街並を歩いた。
何もかもが新鮮だった。
さらに、学内とはいえ、浩輔の描いたテンペラ画が賞をとり、高木も自分のことのように喜んでくれた。
だが、そんな夢のような生活も浩輔の貯えが底をつきそうになり、終わりを告げる――。
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