「浩輔」
「はい」
佐々木に呼ばれ、心ここにあらずだった浩輔は、はっとして顔を上げる。
「悪い思たけど、知り合いからたまたま聞いた。妙な噂があってそれでお前が辞めたんやろてな」
直子の情報の後、以前英報堂の社内で、河崎の部下が、周りからパワハラというか、苛められているところに出くわしたことがあったが、それが河崎の御手付きだなどという噂もあったという話を、制作会社の人間から聞いた佐々木はおそらくそれが浩輔のことに違いないと思ったのだ。
浩輔は佐々木を凝視する。
「噂だけや、なかったんやな?」
通り過ぎる車の音が一瞬途絶える。
「…噂…って」
「責めてるんやない。河崎のことなんか、もう忘れろ言うてるんや」
佐々木は背後から浩輔を抱き竦めた。
浩輔は驚いて身体を捩ろうとするが、佐々木は離してはくれない。
「どうしても放っとけないんや。あの男と会ってからずっと、お前、あいつに振り回されてるやろ」
髪にあたる柔らかなものが唇だと気づいて浩輔は身を硬くする。
「…なあ、大人のつきあいしようって言ったやろ? 俺に……しとかへん?」
首筋にかかる吐息が熱い。
蠱惑的な佐々木の声が耳元で言った。
「さ…佐々木さん…酔ってる? 俺、男だよ…?」
「せやから言うたやろ? 俺はそういうの関係ないし。…俺ならお前を泣かせたりせえへんけど?」
頭の中が何が何だか全てがこんがらがって目茶苦茶で。
ずっと泣きたかった気がする。
こんなふうに抱きしめてくれる優しい腕が欲しかった。
だけど―――。
ようやく浩輔を離した佐々木を振り返って、どきりと心臓が跳ねる。
じっと浩輔を見下ろしている佐々木は、またひどく綺麗だから始末に終えない。
酔っているからか、怖いくらい妖艶なそんな眼差しに魅入られたら、誰でも陥落させられそうな気がした。
「……そんなこと…お母さん、がっかりしますよ」
「平気平気。コースケちゃんなら、うちのお母ちゃんも絶対気に入る思うわ」
やっとのことで絞り出した浩輔の言葉に、ふっと佐々木の瞳が緩んだ。
言ってることは相変わらず掴みどころがない。
「まあ、考えてみ。答えがNOでも、仕事とプライベートはきっちり分けてるよって、心配はいらんからな」
佐々木は大通りに出ると、ちょうど来たタクシーを止め、浩輔を乗せるとにっこり笑ってドアを閉めた。
「今夜は俺が危ないから、帰したる」などとちょっと笑って。
佐々木のことは好きだ。
上司としても人間としても。
でも佐々木と付き合うなんて考えたこともなかった。
いつものまったりな佐々木といると何だか心地よい温泉につかって癒されてる感じだ。
河崎のことだって今度こそ忘れられるかも知れない。
あの人なら、ちょっとくらい寄っかからせてもらえるかな……優しいし、大人だし…
浩輔は自分でも調子のいいことを考えていると思う。
振りかえると、佐々木がまだこちらを見ていた。
スキーで出くわして以来、やたら河崎と自分の行動領域が絡んでいる。
でも河崎とまた同じ道を歩けるわけではない。
費えた時間はもう遠い。
河崎が誰か本当に愛しあえる人と幸せであればいい。
―――それは俺じゃない。
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