沢村と別れたことはまだ誰にも話していない。
それでもここしばらく佐々木が情緒不安定なのを直子も察しているのはわかっていたし、沢村のことを何も聞いてこないのは喧嘩でもしているのだろうと思ってのことだろうと。
直子にもし話したらやはり心配するに違いないし、また良太やアスカらと何かしらお節介をやいてくれるかもしれないからだ。
今度こそ自分で決着をつけたつもりだった。
「アホなこというてないで、とにかくこれどこかにしまっといて、いずれ本人に返すとか考えるわ」
少しぎこちなくはあったが笑みを浮かべ、佐々木はパネルを抱えて奥の部屋に持って行った。
そのパネルはまだ奥の部屋に置いたままだ。
ここ数日忙しくてそれどころの騒ぎではなかった。
「明日だっけ? 八木沼っちのCMの打ち合わせ」
芳しい香りのコーヒーとクッキーをトレーに乗せて直子がキッチンから戻ってきた。
「ああ」
問われて返事をするのに一瞬間があった。
これも十二月に入ってから降ってわいたような事案だった。
今、せっせとやっているのがその仕事のプレゼンに備えたデータだった。
八木沼とも顔合わせがあるというし、ある程度のところはやっておきたかった。
例の覚醒剤で逮捕された水波清太郎の代わりに本谷和正を使って撮り直した、大手酒造メーカーの新触感チューハイ『スリリングレモン』のCMが、クライアント側も代理店側もいたく気に入ったようで、制作に携わったクリエイターの佐々木にまたぜひお願いしたいと代理店電映社から連絡を入れてきたのが、初夏から新発売するノンアルコールビールの広告プロジェクトだ。
当初、佐々木は手一杯だからと断ろうとしたのだが、そこを何とか考えてもらいたいと強引に電話を切ったのが電映社営業部の今西という四十代のやり手と知られる男だ。
肩書はビジネスプロデューサー。
スリリングレモンの広告プロジェクトは春日経由だったので、有無を言わせずやらされた感があり、タレントを入れ替えての時間もない撮り直しとなったことは、佐々木も仕方がないと思ったが、どうもこの担当者とは最初から合わない気がしていた。
というのも最初から向こうも佐々木に対してあまりいい印象を持っていないことが伺えたからだ。
プロジェクトは担当と合わなければ成功しないというのが佐々木の持論だ。
あとで春日から今西のことを聞かれて、はっきりそう言った。
ぬるま湯好きの佐々木だが、そういうところははっきりしていることを誰よりもよく知っていたので、春日はそうか、と言っただけだった。
だからその担当者からまた仕事が入るとは思っていなかった。
どころか、翌日には本人がオフィスを訪れ、話だけでも聞いてほしい、と頭を下げられた。
「初夏から新発売する糖質オフ・プリン体オフのノンアルコールビール、「Yes!Free!(イエス、フリー)」、苦みもそこそこあり、深みがある味で飲みごたえ十分、炭酸も強く、さっぱり感のある香り。重厚なそれでいて華やかさもある、もちろんコスパもいい、朱雀酒造来夏のイチオシということらしい」
今西はまだラベルのない数本の缶をテーブルに置いた。
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