いつの間に止んだのか、窓を叩く雨音が聞こえなくなっていた。
キーボードから指を離して、広瀬良太は窓の外に目をやった。
ここのところ、ドラマの撮影で吉祥寺、ドキュメンタリー番組「和をつなぐ」の撮影で金沢、四月からのニューヨーク研修のミーティングで配信会社ネットプライム本社、というように、まるでその世界では鬼と呼ばれるこの会社の社長工藤が乗り移ったかのように東奔西走していた良太だが、スポンサーとの打ち合わせがリスケジュールとなったため、今日はひょいっと何もない貴重な一日となったのだ。
ただし、幸か不幸か東京は朝から激しい雨に見舞われたこともあって、結局良太はたまっている書類を片付けるべくデスクワークに勤しんでいた。
久しぶりに何も考えずパソコンに向かっていた良太だが、そんな日に限って、朝早くからオフィスのドアを開けた要注意人物がいた。
「あらあら、よほど疲れてらしたのね」
キッチンに立った鈴木さんが、大窓の傍らのソファで眠っている要注意人物に毛布をかけるのを見て、良太は一つ、はあ、と息をついた。
ドラマや映画で主役を張る俳優が所属するため、芸能事務所と思われがちだが、乃木坂に瀟洒な自社ビルを持つここ青山プロダクションは、キー局時代、鬼の工藤と異名を取った敏腕プロデューサー工藤高広が興した会社で、テレビ番組、映画等の企画制作がメインの事業内容であり、タレントの育成、プロモーションは成り行き上付け加えられた業務だ。
ともあれ社員数は二十名にも満たない弱小企業だが、ここのところの国内外の厳しい経済状況にあって珍しく右肩上がりの業績を挙げている。
良太は、今頃札幌あたりで撮影が行われている「大いなる旅人」の最新シリーズで、スタッフや俳優陣に分け隔てなく怒号を浴びせているだろう工藤の顔が頭に浮かび、つい眉根を寄せた。
明るい元気印の後輩森村が今日はその撮影クルーに同行しているので、とりあえずオフィスは平和で静かな空気に包まれている。
それから少し気を取り直して良太はしばらくパソコンに向かった。
「そろそろお昼にしましょうか」
鈴木さんの声に良太ははっと顔を上げた。
書類作成に没頭していたので、時間の経つのも気づかなかったようだ。
「今日はお弁当取りましょうか」
「いいですね」
良太は受話器を取る鈴木さんに頷いた。
鈴木さんは経理、庶務、その他もろもろをこなす、この会社の主だ。
面倒見がよく、気が利いて、出しゃばらず、優しく、品のある鈴木さんには、社長の工藤も頭の上がらないという貴重な存在である。
何しろ、工藤には指定暴力団中山組組長の甥という出自があり、社員を募集しても、面接で、俺の伯父は云々を口にするため、会社の万年人手不足を招いているその要因となっているのだが、訪れる客人が仮に反社会勢力組であろうと警察組織を振りかざして凄む捜査一課の連中であろうとこの御仁は動ずることがない。
ちなみに出自は歴然とした事実ではあるが、工藤は生まれてすぐ曾祖父母に引き取られ、反社会勢力とは縁を切っているし、会社を興した財も曾祖父母から相続したもので、工藤本人はグダグダと国民のためとは言い難い所業を行っている政治屋と同列で反社会勢力を毛嫌いしている。
業界ではそんな工藤の今や懐刀という噂さえあるらしい良太は、俺の伯父が中山会組長、にも怯むことなく面接で踵を返さなかった唯一の社員だ。
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