夏が来る27

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「美晴さん、演奏者としてプロにはなれないけど、ピアノや音楽の楽しさを伝えていきたいっていう思いがあったのね。でもお義母様が思いの他難しい方で、ピアノを教えることもこの街ではできなくて」
 今も祖母の、母親を見るきつい眼差しが響には思い出される。
 あれも昔はああじゃなかったんだが、病気をしてからひどく気難しくなってね、精神的にも病んでしまったんだ。
 祖父は響に、祖母を大目に見てやれとか、許してやれとかは一言も言わなかったが、一度、そんな風に言い訳のように零したことを、響はふと思い出した。
「美晴さん、ニューヨーク音楽院に留学されてからも響さんのことはもちろん気にかけてらして、ロンティボーで優勝された時なんか、ビデオ通話で二人で乾杯したんですよ」
 コロコロ笑う果歩には屈託がなく、そうだったのかと家を出てからの母のことが知れたのもだが、響は母にもこんな友人がいたのだということが嬉しくなった。
「何だよ、俺がキョーちゃんがうちの高校に来たって言った時、そんなことちっとも言わなかったじゃないかよ」
 寛斗が不服そうな顔で文句を言う。
「お祖父様のお葬式に伺ったので、響さんが戻ってこられたことは存じ上げてたんですけど、朱莉のところにいた猫ちゃんを引き取ってくださるなんて、ほんと、狭い町ですわね」
 そう言いながら響を見つめる果歩は笑みを浮かべていた。
「あんまり、私があれやこれやお話しするより、いつか響さんがお母様から直接お聞きになった方がいいと思いますよ」
 果歩はそう締めくくった。
「ただ、美晴さんがいつも響さんのことを思ってらしたことだけは、知っていただきたかったの」
 最後にそう付け加えて、果歩は響と井原を送り出した。
「何だか、いい話でしたね」
 帰りの車の中で、井原がポツリと言った。
「母さんが俺に何も言わずに俺を置いてったことは、ちょっと怒ってたけど、母さんを恨んだことはないんだ」
 その分、祖母や父親を憎悪していたのだが。
 憎悪とかそういう負の感情を持ち続けることは、自分自身を蝕むのだと諭してくれたのは祖父だった。
 ちょうどロンティボーのあと、煮詰まっていた時のことだ。
 母親を追い出した祖母のことが許せないと、祖父にも何度も口にした。
 祖父は、そんな響を叱咤したり文句を言ったりしたことはなかったが、「もっと楽しいこと、楽しかったことを考えた方がいいよ。そうすると楽しく弾けるんじゃないか」などと言った。
 ピアノを続けてこられたのは、祖父のお陰だと響は思っている。
 リベラルで実に心の広い、柔軟な考え方の人だった。
「あ、大丈夫ですか? レッスンの時間」
「ああ、七時半からだから、まだ余裕」
 車の時計は六時半を示していた。
「ありがとう、つきあってくれて」
 家の前で車が停まり、降りる時ぼそりと言った響に、「何言ってんですか、俺らの仲で!」と井原は快活に笑った。
「何かあったら、すぐ連絡下さい。いつでもはせ参じます」
 井原の笑顔はやはり今も響を支えてくれる。
 母の話を聞けたこともだが、一緒にに井原がいてくれたことで、ほんわかと幸せな気分で、響は離れのドアを開けた。

 


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