夏の初めはまだ夜になると気温が下がり、少し肌寒い。
間もなく七時になるが、まだ開いているかと『伽藍』まで来てみるとOPENの文字が見えたので、井原はドアを開けた。
「おう」
井原の顔を見るとカウンターの中から元気が声をかけた。
「まだいいか?」
「何だよ、らしくもない」
元気は笑う。
カウンターには東もいて、ちょっと手を挙げた。
「ひとり?」
「響さんはこれからレッスンがあるし」
井原が元気に答えると、東が椅子を降りた。
「俺もだ。んじゃまた」
レジスターの前のカルトンに小銭を置いて慌てて出て行った。
「あいつ、万年変わらないのな。変わったのは体型か。まだ三十前だぞ。絞った方がいい」
「自分がやる気にならないとな。あと、間食」
元気が苦笑いする。
「自宅で優雅にやってるからだろ。一人暮らしする金がないとか言ってるが、一回やってみてから究極の状況を味わってみたらいいんじゃないか」
井原の前にコーヒーを置いて、元気は眉を顰めた。
「大学時代は一人暮らしだったはずだが、親が絵が描ける広さのマンション借りてやって、仕送りも十二分にあったからな」
「それはほんとの一人暮らしとは言わない」
井原は文句を言いつつコーヒーをすする。
「何だよ、何かあったのか?」
「いや、あったって言えばあったんだが、響さんに」
「響さんに?」
「いい話題と悪い話題」
「いい話題」
東が帰ると井原一人になったので、元気も緩く対応する。
「離婚して家を出た響さんのお母さんの消息がわかった」
「それはよかったじゃん。響さん、会いに行くって?」
手元のカップを洗いながら元気が聞いた。
「いや、まだ。なんでも、家を出てニューヨーク音楽院に留学して、そこの教授になってたらしいが、この春帰国して、東京音大の教授になってる」
「へえ、そうなんだ。なんか、カッコイイな」
元気が楽しそうに言った。
「そうなんだよ。何でわかったかっていうと、寛斗のお母さん、響さんのお母さんと友達で、ずっと連絡取り合ってたらしい」
「ほんとかよ。えらい偶然」
「さっき響さんと一緒に、寛斗ンちで、お母さんに話を聞いてきたんだ。お母さんによると、自分の我儘で家を出たので、響さんに連絡を取らなかった、でも響さんのことはずっと寛斗のお母さんや響さんのお祖父さんから聞いていたって」
そこでしばし沈黙が流れた。
「まあ、響さんには複雑だよな」
「ああ。響さんは祖母と父親がお母さんを追い出したって、恨んでるし」
「そうかのか?」
元気が聞いた。
「高校時代から父親と祖母とは折り合い悪かったらしい」
井原は響の心を思うとやりきれなくなる。
「悪い話」
「ええ? 聞かなきゃダメ?」
元気がちょっとおどけて聞いた。
「その折り合いの悪い父親に、俺らが付き合ってることがばれた」
「えーーーーっ! それ、マズいだろ?」
元気が喚くと、井原は一つため息をついた。
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