夏が来る35

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「だが、いざって時頼めるんなら、とりあえずピアノを移動させてもらえれば」
 井原は言った。
「ダメとは言わないだろ。土地も広いから車も数台置けるし。何なら打診してみるが」
「頼むわ」
 そう言ってから、井原は意味ありげににやりと笑う。
「何だよ?」
「なるほど。人里離れた農家が元気と豪の愛の巣ってわけか」
「今の話無しにしてもいいんだぞ」
 元気に思い切り冷たい視線を浴びせられて、井原は「冗談だってば! んな怒らなくても」と慌てて否定する。
 だが、元気や井原の心配をよそに、響と親との関係は意外な進展を見せた。
「え? お母さんと会えることになったんですか?」
 翌々日の放課後、例によって音楽部員が帰った頃に音楽室に寄った井原は、響の話を聞いてちょっと驚いた。
「夕べ帰ったら、父親に呼ばれて、いよいよかと思ったら、母さんがこの街に来てる、俺に会いたいと言っている、って言うんだ」
「え、ご両親って、どうなってるんだろ、喧嘩別れしたってわけじゃないんですか、じゃあ。互いに連絡取り合ってたとか?」
 井原ですら頭の中が混乱しているのだ、響にしてもわけがわからない状態だろうと思う。
「よくわからないが、父親があの家にいることはわかってたから、母さんがたまたま連絡してきたのかも知れないし」
 そう言いつつも、響も母親に会えるのを喜んでいるらしいことは、表情からもわかった。
「で、いつ、会うんですか?」
「一週間くらいはいるらしいって、ホテルAに泊まってるっていうから、携帯聞いたから、土曜に会いに行こうかと」
「よかったですね!」
 すると響は少し申し訳なさそうに、「悪い、車見に行こうって言ってたのに」と言った。
「車なんかいつでも見に行けますよ。あ、でもAホテルまで、送りましょうか? 土曜日。車ないと行きづらいでしょ、あのホテル」
 井原は勢い込んで言った。
「いや、そんな、悪いよ。タクシーで行くし」
「あ、そうですか」
 その顔が見事にガッカリなのを見て取った響は、「じゃあ、帰りとか、頼んでもいいか?」と言った。
 途端、井原は満面の笑みを浮かべて、「もちろん、何時でもはせ参じます!」と宣言する。
「ありがとう」
 響は笑顔で井原を見た。
「でも、お父さんとのあれこれ、どうなってるんでしょうね? その話は出なかったんですか?」
 やはり気になって井原は聞いた。
「何も言わなかったけど、どうなんだろう、さっぱりわからない」
 響は首を横に振る。
「いや実は、もし、万が一のことがあったら、ピアノを置けてレッスンもできそうなところがあったんですよ」
 井原はもう決まったようなことを言う。
「え、ほんとに?」
 響もちょっと興味を持った。
「っていっても、住まいは俺んちで、レッスンだけそこでできそうだっていう。響さん、俺んちでレッスンするの、嫌だっていいそうだし。グランドピアノ一台くらい置けますけど」

 


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