俺はくだらない親切心とやらにそそのかされて、まんまと千雪にそのきっかけを与えてしまったのだ。
「……千雪……くそっ!」
京助は苦々しい思いを噛み下した。
窓の外は夜の闇を見せるだけだ。
やがて山の端から小さな明かりが現れた。
闇の中に灯った明かりからは温かささえ感じ取れる。
結局のところ人間が本当に欲しいものはそれだろう。
金やら物やら、そんなものはたかが飾りだ。
少なくとも俺にとっては……。
千雪という明かりがなければ俺は闇の中にいる。
ふん、と京助は自嘲気味に笑いをもらす。
熱に浮かされてかなり気弱になってるな。
重くなってきた瞼を閉じた京助が次に目を開けた頃、既に新幹線は米原あたりを走っていた。
眠くならない薬を飲んだつもりだが、やはり熱があるのだろう。
また目を閉じると今度は乗り過ごしてしまいそうで、京助は席を立ってデッキに出た。
やがてアナウンスが京都を告げた。
列車が停まりドアが開くなり、京助は言い訳代わりにホームの売店でそそくさと適当に土産を買い、階段を降りるとコンコースを足早に抜けて、中央口のタクシー乗り場へと向かった。
京都の桜はもう葉桜になっていた。
風に吹かれて舗道にまだ残っていた花びらが舞う中、千雪が家に着いたのはもう夕暮れ時だった。
沢口呉服店も菓子処「やさか」も記憶のままの佇まいで、住み慣れた町の通りは変わることなく久しぶりで訪れた千雪を迎えてくれたが、既にそこに住むのは千雪の知る人ではないだろうことに、どこかよそよそしささえ感じてしまう。
店に顔を出すこともなく、千雪は路地を少し入ったところにある古びた生家の門を開けて玄関に立った。
幸福だった時間は過ぎ去ったのだと、思い知る一瞬でもあった。
小さな庭先に、きれいな石楠花が咲いたのよと、母に呼ばれてやってくる父親は、常に何かしらの本を手にしている。
千雪は縁側でゆったり寝そべっている大きな愛犬の傍らで笑っている。
母がお茶や菓子を載せた盆を縁側に置いて父の横に座る。
午後の和やかなひとときだ。
絵を描く以外はあまり器用とはいえず、どこか抜けたところのある母だったが、家族三人で食卓を囲む毎日の夕餉もまたささやかな幸福だったに違いない。
鍵を開けてブレーカーを上げ、明かりをつけると、しんと静まり返った空気があらためて千雪を包む。
愛犬も母も父もいなくなり、一人雨戸を開けて眺める庭は、たまに庭師に頼んで手入れをしてもらっているが、どこかしら侘しさを感じないではいられない。
それでも小さな野花がちらほら咲いているのを見ると、少しばかり救われたような気持ちになる。
父の書斎には膨大な蔵書があるため、年に二回、父の教え子で今は助教となった島崎と江藤という二人が家を訪れ、風を通したりして管理してくれている。
千雪も二人とは馴染みなので信頼して鍵を託しているのだが、研二や江美子が結婚して以来ずっと何となくこの家に足を向ける気にならなかった。
軽井沢で原稿をあげたあと、急に思い立って京都に向かったのは、平造が亡くなった両親の墓参りに来週あたり行くのだというのを耳にしたからだ。
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