霞に月の106

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「あら、これからお出かけ? 楽しそうね」
 帰り支度をした鈴木さんが声をかけた。
「ああ、天野さんです。飲み行こうって」
「良太ちゃん、仕事漬けで最近難しい顔ばっかだったから、たまには息抜きしたらいいんじゃないかしら?」
 天野さんと仲がいいのね、と笑う鈴木さんを、お疲れさまでした、と見送ると、良太もプリントアウトした書類をクリップでとめ、メールを確認すると、ちょうど六時、デスクの灯りを消した。
 仲がいいってとこまではいってないけど、一緒に飲むと楽しいよな、天野さん。
 おそらくこうして誘ってくれるということは、天野の方もそんな風に思ってくれているのかも知れない。
 部屋に上がって猫たちにご飯をやると、良太はそのまままたエレベーターに乗った。
 乃木坂から地下鉄に乗り、明治神宮前で乗り換えて東横線直通の副都心線に乗れば、七時少し前に代官山駅に着くはずだ。
「広瀬さん」
 電車を降りた途端、良太は呼ばれて振り返った。
「あ、お疲れ様です」
 天野は白いシャツに紺のジャケットで近くに立っていた。
「こないだはありがとうございました。タイバー、見つけていただいて」
「いや、俺の部屋が汚かったんで、すぐに見つからなかっただけですよ。お陰で少し片づけました」
 天野はこっちです、と良太を促した。
 駅から五分ほど歩いて路地を入ったところに、樹木に囲まれてどこが入口だかわかりにくいようにわざとしつらえてあるらしいドアを探りあて、天野は先に良太を中に入れてからドアを閉めた。
 少しまた空間があり今度は重い木のドアを引くと、薄暗い空間に足を踏み入れていた。
 レトロな雰囲気のカウンターや壁際にはいくつかのテーブルセット、そしてピアノがジャズを奏でていた。
「なんかちょっと小僧っ子はお断りって雰囲気なとこでしょ。前に共演した篠崎さんがここのこと話してて、もうちょっと大人になったら行ってみなとか」
 隅のテーブルセットに案内されて、ビールで乾杯した後、天野は笑いながら言った。
「バーなんだけど、ビーフシチュウがやたら美味しいんだって」
「篠崎ってあの大御所俳優の?」
 五十代で最近は重厚な演技が定着したと言われている渋い二枚目俳優を良太は思い浮かべた。
「そう、篠崎嘉彦さん。色々教えてくれるんだけど押しつけがましくなくて、いい人なんだけど、そんなことを言われると行ってみたいと思うじゃないですか」
 天野は語気をちょっと強めた。
「まあ、一人じゃ気後れするような店ですね」
 カウンターの後ろの棚は、あらゆるボトルが一面を覆っていて、おそらく価格設定も高めで、やはりひよっこではちょっと入りづらいだろう。
 シチュウは奥にある厨房から黒いタブリエをつけた背の高い男前なスタッフによって運ばれてきた。
 白いシャツにベストと蝶ネクタイのスタッフもカウンターの中のバーテンダーも身のこなしは隙なく黙々と仕事をしている。
「ここって、スタッフの基準すげえ高い?」
 数名だがいずれも高身長でルックスがいい男性だ。
「らしいですよ。下手な俳優じゃ面接で落とされるって話で」
「ひえ………、よかった、俺、少なくともルックスで勝負するような会社じゃなくて」
 良太はもう一度スタッフらを見やる。

 


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