そんなお前が好きだった55

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 そして忘れていたシーンの中に井原がいた。
 喜怒哀楽がはっきりしていると生徒が言っていたが、すぐに思い浮かぶのは笑っている井原で、怒ったり泣いたりと言ったシーンも思い出されて、そういえば忙しいやつだったと響は苦笑する。
 そんな昔の思い出に浸りながらのんびり穏やかに過ごせたらよかったのだ。
 実在の今の井原が現れたのはまさしく想定外。
 今の井原は昔の井原じゃない、好きだったのは昔の井原なのだ。
 ダメだ、今の井原に心を乱されたりしては。
 少し落ち着かないと。
 響は自分に言い聞かせ、文字すら頭に入っていなかった本を棚に返した。
 放課後の音楽部の練習に井原は顔を見せなかった。
 何となく構えていた響は肩透かしをくった気もしたが、こなければ余計な話も聞かなくていい。
 それよりもコンクールに向けて真剣な生徒たちを見ていれば、物思いをしている暇はなかった。
 特に瀬戸川はここ数カ月で実力がぐんと伸びた気がする。
 このままいけば、音大も合格圏内ではないかとも思う。
 医学部志望というのが残念なくらいだ。
 志田もこの曲を深く読み込んで、持ち前の技巧のレベルも上げてきている。
 あとは榎のフルートと寛斗のピアノだ。
 彼らに過剰な期待をすることはできないが、瀬戸川や志田に引っ張られるように、それぞれに力をつけてきているのがわかる。
 寛斗もかなり力が入っている。
 力が入り過ぎて瀬戸川に、「寛斗、力入り過ぎ」と注意を受けるくらいだ。
 響は気になるところだけ、声をかけるが、基本は生徒たちに任せている。
 新一年生も休むことなくやってきて、演奏が終わると、それぞれの意見交換が始まった。
 今、かなりいい感じだな、と全体を見ながら響は一人頷いた。
「何か、すげえいいな」
 いきなり頭の上から降ってきた声に、響はハッと我に返った。
「こないだ、部活紹介でやった時より格段よくなってない?」
 来ないだろうと思った井原が同じようなことを言った。
「ここんとこ瀬戸川がぐんと力つけてきたから、瀬戸川と志田に引っ張られて榎や寛斗もよくなってる」
「気合入ってんなあ、素人耳にも瀬戸川、医学部なんて惜しい気がする」
「全国模試上位の瀬戸川に、医学部やめて音大にとはまず言えないが」
「え、やっぱそんなレベル?」
 井原は響の顔を覗き込む。
「ここだけの話、うちの大学なら受かるかも」
「もったいねぇ」
「あくまでも、かも、だ。本人にその意思がなければ問題外。それに音楽って食ってけるかどうかわからない浮き草稼業だし、医学部行っても趣味で続けてくれればいんじゃないか?」
 色々考えていた割には、井原としゃべるといつもの通りのやり取りになってしまう。
「っと、いけね、今日は部活、俺が必要なことがあったんだ。じゃ、またくるわ」
 慌てだした井原に、「わざわざこっち覗く前に、天文部行けよ!」と響は言った。
 ハハハと笑ってて井原は音楽室を出て行った。
 まもなく意見交換が終わり、演奏する側の四人はそれぞれの問題点を取り上げて次の練習までに回収しようということになった。
 寛斗は席の後ろの方で聴いていた響のところにのっそりとやって来て、「俺でいいんかなあ」と呟いた。
「どうした? 自信家のお前らしくないぞ」
「いや、レベルがさ、瀬戸川や志田、違い過ぎね? 瀬戸川、今度のコンクールにかけてるって感じじゃん。俺がぶち壊してる気がしてさ。何か、ほら、一年のあいつ、青山? あいつのが俺よかレベル上じゃね?」
 響はうーん、と口にする。

 


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