同時に、いつかこの父親を越えるという願望は悠の中に常にあったはずだ。
「これからもがんばりなさい」
老人はそう言って去った。
本人を目の前にすると、何の感慨もない代わりに憤りもない。
悠にとって今や一人の老人でしかなかった。
「村松幸蔵と知り合いなの?」
悠は藤堂の声に驚いて振り返った。
やっとギャラリーにやってきた藤堂はそのようすを少し離れたところで見ていたのだ。
「父親。でもガキの頃、お袋と別れたから」
「え、いいのか? 久しぶりに会ったんだろ?」
藤堂は驚いた。
「いいんです」
幸蔵と入れ違えに飯倉教授がやってきたお陰で、藤堂との会話が途絶える。
「お忙しい中わざわざありがとうございます」
「気持ちが悪いな、そんな殊勝なことをお前が言うと」
まだまだだな、と飯倉は捨て台詞を吐いて出て行く。
悠が構えるほどの誹謗中傷はどこにもなかった。
あの人はあの人の生き方で歩いていくしかないんだな。
オープニングの夜、高津や悦子らと飲んでいて、悠は飯倉の意外な話を聞いたのだ。
『最近耳にしたんだが、娘が心臓悪くて移植するっきゃないらしい。カネがどれだけあっても足りないんだってさ』
だからといって飯倉が賄賂じみたカネを取ることを正当化はできないが、どんなに謗られても、飯倉はきっとかまわないに違いない。
娘のためなら。
「人間って、いじましいな」
悠はいつの間にか、自分だけのために、藤堂の手が欲しくなっていた。
ようやく悠はわかったのだ。
絵を描くことが、父親を超えるためでも、ましてや飯倉教授を超えるためでもないのだと。
口を揃えて、いい絵だと言われても、それらの言葉全てがまやかしだと思っていた。
死が怖いと思わなかったから、ビルの屋上の端に立つことも平気だった。
リアルさが際立っているだけで、たいした絵ではないことは、自分がよく知っていたはずだ。
だが、ここにきて、初めて描きたいと思ったものがある。
描きたいのは温かさだけ。
藤堂という、温かさを知ってしまったから。
「藤堂さん、今夜部屋で、打ち上げやんねー?」
やっと二人だけになった時、一世一代の覚悟を決めて、悠は藤堂に告げた。
「遅くなっても、俺、待ってるから」
藤堂の返事を待つうち、悠はひとつ、大きく息をつく。
藤堂は一瞬、言葉が出てこなかったが、すぐに顔をほころばせた。
「ようし、とびきりのディナーにしよう。美味しいもの、買って行くよ」
まだ何か話し足りない気がしたが、また携帯に呼び出しをくらい、藤堂は「なるべく早く切り上げる」と言い残してギャラリーを出た。
その夜、九時ちょっと前にようやく息せき切って帰ってきた藤堂は、両手一杯、ケーキやらシャンパンやらを抱えていた。
「遅くなってゴメン!」
馴染みのシェフに頼んで作ってもらったというディナーは早くにデリバリーされていた。
きのこや海の幸を使ったアンティパスト、旬の野菜のサラダに柔らかい肉の煮込み料理などをテーブルにセッティングして、悠は藤堂を待っていた。
「それでは、悠ちゃん、作品展開催、おめでとう!」
藤堂はご機嫌でシャンパンの栓を抜いた。
ポーンととんだ栓が、悠のグラスに見事着地し、悠も久しぶりに笑った。
アイちゃんも大好きな骨をもらって満足したようだ。
最後に楽しく過そう、そして、今までありがとうございました、ときちんと礼を言おう。
悠はそう考えていた。
そんなに、飲むはずではなかった。
ましてや、藤堂に絡んでそんなことまで言うつもりはもうとうなかったのに。
「あんたや、あんたののつてで絵、買ってもらったって、嬉しくもなんともない。俺は俺で勝負するんだ!」
気がついたらそんなことを口走っていた。
「つてがあっても、絵がよくなかったら、誰も買わないよ」
藤堂は優しい言葉をくれる。
「う…さい! 大体、俺はあんたのことを誤解してた。こんなとこに、人からのもらいもんで暮らしてるから、てっきり金もないんだって同情してたのに、実は大会社の社長一族なんだってな! 俺は、俺は金持ちなんか、でぇ嫌いなんだよぉ!」
悠は、手酌でシャンパンをグラスに注ぐ。
「こらこら悠ちゃん、かなり酔ってるな?」
藤堂はくすくす笑いながら悠からボトル取り上げようとするが、「うっせー! 誰が酔ってるもんか」とボトルを放さない。
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