空は遠く156

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 力が佑人に声をかけたのなんて、どのくらいぶりだろう。
「あ、ああ、ありがとう」
 ただ順番で事務的に呼んだだけなのに、力に言葉をかけられたそれだけのことが嬉しい。
 バカ、か、俺は。
 それにしても肝心の美月はどうしたのだろう。もう伝えた時間は過ぎているし、何か急に仕事が入って来られなかったのだろうか。
 面談が行われているのは、二つ先にある会議室だ。
 ドアを開けようとノブに手をかけた時、「佑くん、遅くなってゴメン」と階段の方から美月が現れた。
 髪はまとめてグレイのツイードのスーツ、低めのヒール、確かに美月としては地味目の装いなのだが、女優を生業にしているだけあってプロポーションがよく、立ち居振る舞いがいつもの何者? な雰囲気だ。眼鏡にマスクはご愛嬌だろう。
「タクシーで来ようと思ったんだけど、心配だからって賢ちゃんが送ってくれたの」
 賢ちゃんというのは、散々美月に振り回されている人の良いマネージャーで、鳥居賢一という。
 成瀬家とは家族ぐるみの付き合いで、当初幼稚園に通っていた鳥居の娘が今年大学に入ったくらいだからもう十五年以上になる。
 実は佑人が中学の時、例の事件があって間もなく、長年在籍していた事務所を美月は辞めた。
 事務所の社長は美月を庇い、フォロウしてくれたのだが、美月は事務所に迷惑をかけたくなかったらしい。
 事務所からの独立の際も、事件絡みで美月が追い出された云々とマスコミがあることないこと騒ぎ立てたが、実際は、社長は美月の独り立ちの手助けをした上、鳥居も一緒に行けと言ってくれた豪快な男だ。お陰で前の事務所とは未だに交流もある。
 佑人はそんな諸々のことも自分に責任があると思っているから、二度と母親を矢面に立たせるようなことはしたくないのだが。
「はじめまして、佑人の母でございます。佑人がお世話になっております。あの、ちょっと風邪を引いておりまして、マスクで失礼いたします」
 


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