車のナビシートに座らせられたことは覚えていたが、その後、酔いと車内の暖かさに、昨夜あまり眠れなかったのもあったのだろう、千雪はいつの間にかうつらうつらし始めた。
「おい、うちはどこだ?」
工藤が尋ねても、既に千雪は眠り込んでしまっていた。
しばし逡巡した工藤だが、とにかくエンジンをかけた。
最初は、会社の上にある部屋へでも連れて行って寝かせてやろうくらい考えていた。
車を走らせながら、通り沿いに今にもほころびそうな蕾に赤く染まった桜の木が目に入らなければ。
途端、蘇る古い記憶。
その目で見たわけでもないのに、鮮やかに脳裏に浮かぶのは花びらに埋もれた白い指だ。
「ちょうど桜の大木の下で眠るように……」
知らせてくれたのは、唯一彼女に同情的だった家政婦だった。
閉じ込められていた三階の窓から飛び降りたのだと話してくれた。
こっそり手渡された手紙には、『ごめんね、高広』の一言だけが記されていた。
以来、桜の花はその季節がくるたび、工藤の心を乱す。
どこにも持っていきようのない怒りと苦しみに苛まれ、自分でもコントロールができなくなって、酔って暴れたことも一度や二度ではない。
「………ちゆき……」
長い間心の奥に封印していた名前を工藤は口にした。
呼び起こしたのは昨今注目を浴びている新進ミステリー作家の一冊の本だった。
桜の絵を表紙にした『花のふる日は』の作者、それが小林千雪だ。
たかだか同じ名前なだけだ、そう思いつつも手に取らないではいられなかったその小説は、どうせろくな話ではないだろうとたかをくくっていた工藤の心を戦慄させた。
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