「え、するとやはり、君のことだったのか。一見女性とも見まごう青年と先週の土曜日の今頃、ここで出会って話をしたと。地理的に君のマンションに近いし、まさかと思いながら来てみたんだが」
渋谷の話では、自分の勘でやってきたものの、それが当たって驚いたというわけだった。
「アリバイの裏を取らなあかんような事件でも?」
千雪もシルビーの飼い主のこととわかり、俄然気になった。
「ちょうどその時間帯に、この近所で殺人事件があってね」
「渋谷さん、そんなことを話してええんですか? 一般人に」
すかさず山下は眉を顰めて割り込んだ。
「ああ、まあ、ちょくちょく事件のアドバイスをね、いただいているから。法学部の先生だし」
渋谷は言い訳がましく説明した。
「はあ」
山下は納得いかないという顔で頷いた。
「犬の名前がシルビーってことしか聞いてませんけど、そのおっさんなら確かに先週の土曜日出くわしましたよ。犬が散歩中にリードごと逃げてしもて、あちこち探してはったみたいですよ」
千雪の説明に山下が反応した。
「男の住まいは広尾やろ。犬の散歩て、ここまで歩いて三十分以上かかるで」
「ハスキーくらいな大きさなら、一回に一時間は散歩の時間必要みたいやし。数日前もこの公園でシルビーと一緒に会いました」
スパっと千雪に切り返されて、山下は口を噤む。
「なるほど、その時間のアリバイはありってことか」
渋谷がぼそりと言った。
「犬の散歩中に会うた誰ともわからへん人間を探さなあかんほど、被疑者の容疑が濃いってことですか?」
千雪が聞くと、「まあ、以前被疑者と被害者が争っていたというんでね、あの男が事情聴取されたんだが、殺害されたと思われる時刻に犬の散歩で見知らぬ男と会っていたというのを、本部は嘘っぽいと信じなかったんだが、男が会ったという相手の説明が俺は引っ掛かったんでちょっと出かけてきたんだ」と渋谷は説明した。
「争っとった以外に、証拠は上がってへんとかやないですやろ?」
千雪に突っ込まれて、渋谷は情けなさそうな顔になった。
「それがそうなんだ。また振り出しだよ」
「そんなんで被疑者にされよったら、冤罪てんこもりやないですか?」
すると山下が、「その言い草はなんや。本部かて足を棒にして駆けずり回っとるわ」とイライラと言い返す。
「初動捜査から方向が間違うとると、足を棒にするだけ時間の無駄やし、真犯人から遠のくだけですやろ」
千雪に真っ向から指摘されて、またかっとなって睨みつける山下を、まあまあ、と制して、「ほとんど手がかりがないからとりあえず一つ一つ当たっていくしかないんだ」と渋谷が言い訳した。
「まあ、男の言い分の裏が取れたから、帰るよ。時間を取らせてすまなかった」
そう言って山下を促して戻っていく渋谷の肩は若干うらぶれて見えた。
確かに捜査本部の刑事たちは、足を棒にして聞き取りをしているのだろうことは、千雪にもわかっていた。
渋谷の言う通り、おそらく手がかりがないのだろう。
それにしても、あんな毒にも薬にもならなそうな、人の好さげな紳士が、いきなり殺人事件の被疑者にされるとは、人間何があるかほんとにわからないものだと、千雪は考えてしまう。
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