春立つ風に70

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「クマとかにも寄ってこられそう」
 ガクッときそうなことを言いながらスニーカーを履こうとする千雪に、「千雪さん、スーツだし、スニーカーより普通の靴の方が」と良太は言った。
「ああ、こういう靴って、あんまし好きやないんや。リーマンも良太もよう履いとるわ」
 千雪はシルビーを撫でてやってからドアを閉めた。
「さあ、とっとと行きますよ」
 良太は千雪をせかしてエレベーターに乗る。
「ほんまに良太、工藤さんにやることが似てきよったな」
「だから、やめてくださいって、それ」
 はあ、とため息をついて良太は千雪を車に乗せた。
「俺、何も話さんでもええよな?」
「はいはい」
「ああもう、うまくいかん。ネクタイせんとあかん?」
 結び直そうとしてうまくいかず、千雪はネクタイを引き抜いた。
「着いたら直します。俺も毎日してるけど、うまくなりません」
 MBCの本社ビルに着くと、良太は駐車場のゲートをくぐる。
 車を停めると、千雪はもう一度ネクタイを結び始めたので、最後、良太が手を貸して何とか結び終えると、千雪を促して受付を通り、エレベーターでプレゼンテーションルームに上がった。
 エレベーターを降りたところで、竹野紗英とマネージャー佐田がいた。
「良太、久しぶり!」
 紗英は良太を見て笑いかけた。
「よろしくお願いします、竹野紗英さん、こちら、小林千雪先生です」
 良太が千雪を照会する前に、「初めまして! 大ファンなんです」と紗英は千雪に駆け寄っていた。
「あ、どうも、初めまして」
 メガネをかけた千雪は、知人以外と対する時、まるで別人のようになってしまう。
 普段はガンガンしゃべるし悪口雑言もいつものことだ。
「よろしくお願いします。あの、サインお願いできますか?」
 紗英はバッグから千雪の小説のハードカバーを取り出すと、ペンと本を差し出した。
 千雪は無言で受け取ると、サインして紗英に渡した。
「ありがとうございます! ドラマに出演できて光栄です!」
 芦田に急かされて紗英はプレゼンテーションルームに入って行った。
 良太は千雪は一瞬顔を見合わせたが、千雪を促して中に入って行く。
 大澤流、端田武、事務所パラリーガル役と事務員役の村野高太郎と石井みのりのレギュラー陣と準レギュラーの松本警部役、中川アスカ、MBCのプロデューサー陣は既に顔を揃えていた。
 アスカのマネージャーである秋山ももちろん待機している。
 ここのところ山根監督と脚本家の久保田も準レギュラーのようなもので、良太と目が合うと軽く会釈した。
 良太もこの二人とは割とウマが合うので有難い。
 以前、山之辺芽久がゲストで出た時の監督と脚本家は終始いがみ合っていて、最悪だったのだ。
 そこへMBC社長、広岡治が秘書を伴って現れ、原作者の千雪に挨拶とねぎらいの言葉を述べ、大方十分ほどもああでもないこうでもないとグタグタと並べ立てた。
 こういうのを前にすると、挨拶最低記録一分の工藤が有難く思えてくるから不思議なものだ。

 


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