霞に月の138

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 二十分ほどで人形町にある大森美術に着いた。
 三階建ての住居と事務所、スタジオを備えた会社で奥には倉庫がある。
 スタジオでは、大森和穂のインタビューを撮影しているところだった。
 下柳のカットがかかったところで、良太はドアを開けた。
「お、何だ、ピンピンしてるじゃねえか。俺はまた足の一本や二本折れたんならえらいこっちゃと思ったのによ」
 良太の後ろから顔を見せた工藤に気づいて、下柳が早速揶揄する。
「お陰で今日一日無駄になったんだ、とんだ大迷惑だ、あのクリーニング屋」
「工藤さん、無事だったんだ。良太ちゃん血相変えて飛び出してったから、心配してたんですよ」
 工藤が会社を興したころから、よく父親について仕事の手伝いをしていたので、和穂は工藤とも長い付き合いになる。
「ひとみがさも訳ありげな言い方をしたんだろ」
 工藤の言葉に良太は、確かに、と頷く。
「ひとみさんも大丈夫だったんですか?」
「あいつはかすり傷一つない。ってのに、無駄な検査ばかりしやがって」
 工藤はまだぶつくさ文句を言う。
「フン、いじめっ子世に憚るっていうじゃねぇか」
 下柳が茶々を入れる。
 良太はその間にコーヒーをカップに注いで、和穂や下柳、工藤、クルーらに配って歩く。
 するとそこへ、大森社長が顔を出した。
「工藤さん、今日はまたえらい娘がお世話になっちまって」
 良太が大森にもコーヒーを渡すと、「良太ちゃんにも厄介かけっぱなしで申し訳ない」と頭を下げられた。
「しかし、ほんとにうちの娘なんかがテレビに出たりして、いいんですかい?」
 大森は和穂を撮ると決まってからも、何度も同じようなことを言って首を傾げている。
「技術を引き継ぐってのが趣旨だから、あんたも出るんだろ?」
 工藤が言った。
「いやあ、ほんとに私なんか、それこそ申し訳ないくらいで」
「大森さん、そろそろスタンバってくださいよ」
 下柳が言うと、大森は途端、顔をガチガチに強張らせる。
「そうしゃっちょこばるな。ヤギの言う通りやればいい」
 工藤が苦笑する。
「はあ」
 だが俳優のようにそう簡単に画面に収まるなんてことができるわけもなく、しばらく和穂といつも通り仕事をしてくれと、下柳は大森に言った。
「これから撮るとか言うと緊張しちまうから、それ、言わねえから」
「はあ」
 下柳はじっくり、野生動物でも撮るかのように、二人のようすに目を向けた。
 二人だけでなく大森美術のスタッフも仕事に取り掛かった。
 その間、撮影陣だけは口を開かず、じっと見守った。
 三十分近くカメラは静かに撮り続け、ひたすら音を拾った。
 最初は声がひっくり返ったりしていた大森社長も、十五分経った頃から和穂の仕事に文句をつける声がいつも通りの口調に変わり、やがて下柳のカットの声が響いた。
「いんじゃね? 大森さん、これ以上出ろとか言わねえから」
「ふええ、マジで心臓に悪いやね」
 大森が汗を拭き拭き苦笑いする。
「お疲れさまでした。自然体でよかったですよ」
 良太が声を描けると、「いやあ、一生に一度ってことにしといてくださいよ」と大森はまた笑って、スタジオを出て行った。
「良太と仲直りしたんだろ?」
 大森を労う良太を見ている工藤に、下柳がこそっと言った。
 工藤は思わず眉間に皺を寄せる。
「そんな問題じゃない」
 イラつきながら、それでも仕事が終わったら、良太を連れて帰ってじっくり問い詰めてやる、と工藤は良太に視線を戻す。

 


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