ホールのざわめきに、良太はふうっと肩の力を抜いた。
「風邪、大丈夫ですか?」
「ああ」
工藤も椅子の背に凭れかかった。
「そうだ、佳乃さんは?」
「さっき電話があった。学会だとか言ってたな」
「昨日会社の方に来てくださって、皆にプレゼントいただいたんです。工藤さんへのも預かってますけど」
「そうか」
「え、じゃ、まだ会ってないんですか?」
意外な工藤の態度に、良太は聞いた。
「うーん、まあ、あいつもそろそろちゃんと独り立ちしないとな。最近は調子がいいようだし」
「はあ」
良太は少し小首を傾げる。
どう、なってるんだ?
「そういえば、またたくさんプレゼント届いてますけど」
「何だ、プレゼントって?」
怪訝そうに工藤は聞いた。
「何って、バレンタインデーの」
「ああ?」
途端に工藤はさも嫌そうに眉間に皴を寄せる。
風邪で今日がバレンタインデーだってことも忘れてたとか?
鈴木さんや俺やモリーが日がな一日、プレゼントの仕分けしてたってのに。
良太はちょっとムッとする。
「また、部屋に持ってってありますから」
「ああ、だから、みんなでわけろって」
「食べられるものばっかじゃないですってば」
すると工藤はフンっと腕組みをして目を閉じる。
ちぇ、やっぱ、プレゼントなんかやめればよかった。
良太はイラっとしてそんなことを思う。
ふと前の席に目をやると、ちょうど振り返った鈴木さんが良太に気づいてにこにこと手をひらひら振った。
良太も笑みが戻り、手を振り返す。
「腹が減った」
隣で工藤がボソリと言った。
「終わったらメシ、いくぞ」
「ああ、はい」
これだから、良太の心はそれこそ一喜一憂するのだ。
後半、桐島の弾くショパンのメロディは良太の心をひどく刺激し、思いがけずポロリと涙が零れる。
手の甲で慌ててそれを拭う良太を横目で見た工藤は、自然口元に笑みを浮かべた。
ポロネーズで締めくくり、アンコールに仔犬のワルツを弾いた桐島は、スキー合宿で会った時は華奢な女性だと良太は思っていたが、その指から奏でられるピアノはひどく力強く大胆な音だった。
「何かこんなにすごかったんですね、ピアノって」
ホールを出たところで紫紀や小夜子に出くわして、軽く挨拶をした工藤と良太はタクシーで二番町の方へ向かった。
「もっと音楽もお勉強しろよ」
「またそうやってバカにする」
鼻で笑ってからかう工藤に、良太は文句を言う。
「桐島さんって、でも平気でスキーとかしてたし、度胸ありますよねぇ」
「まあ、世界中公演で回ってるからな、自然と強くなるんだろ」
「そうなんですねぇ」
ついつい自分がいかに小さいかを再確認する良太だが、俺は俺の土俵で動くだけだし、と開き直る。
工藤が良太を連れて行ったのは、『花暦』という小料理屋だった。
ゴマ塩の髪を短く刈り込み、赤ら顔にも深い皴が刻み込まれたオヤジが、「いらっしゃい」と精一杯の愛想でカウンターの中から二人を出迎えた。
「紺野さん、いらしてますよ」
オヤジに言われて奥を見ると、キー局時代の先輩紺野が一人手酌で呑んでいた。
「お、工藤じゃないか」
「お疲れ様です」
紺野の方へ歩み寄る工藤の後に良太は続いた。
「うちの広瀬です。紺野さんだ」
工藤が良太を紺野に紹介すると、「初めまして、広瀬です」と良太は頭を下げた。
「おおう、君か、噂の良太ちゃんてのは」
セーターの上にジャケット、眼鏡の紺野は少し疲れた顔に笑みを浮かべた。
「は?」
いきなり初対面で良太ちゃん呼ばわりされて、しかも噂とはいったい何だ? と良太は思わず紺野を見つめた。
紺野の横に工藤が座り、良太はその横に座る。
「何ですか、その噂って」
工藤が代わりに聞いた。
「いや、俳優やってた可愛い坊やを工藤が出し惜しみして、プロデューサーなんかさせてるって、坂口さんが」
全く、何を吹聴してんだよ、坂口さんは!
良太は口には出さずに調子よく喋り捲る坂口を思い浮かべて文句を言った。
「坂口さんのいつもの戯言ですよ」
工藤は眉を顰めて紺野に答えた。
二人の前にお通しのゆず大根が置かれると、工藤は生ビールに刺し盛り、梅きゅうを頼み、ねぎま、はつ、つくね、レバーなどを二人前注文する。
「お前は?」
工藤に聞かれて「えっと、唐揚げと海老グラタン」と良太は言った。
「何、仕事帰り?」
紺野が聞いた。
「や、知り合いのコンサート帰りです」
「コンサート? へえ、仕事中毒のお前にしちゃ珍しいな」
二人は生ビールのジョッキを掲げ、紺野はお猪口をちょっと上げて乾杯すると続けて言った。
「お前、世の中今日が何の日か知ってるのか? バレンタインデーだぞ」
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