そんなお前が好きだった31

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「朱莉みたいな能天気にはわからねぇ、いろいろがあるの」
「誰が能天気よ!」
 いつもの言い争いを始めた姉弟を見て、響は「じゃ、また寄ります」と袋を抱えて店を出た。
 可愛い猫たちが思い思いに遊んでいるのが外からも見えるが、猫はただ見ていた時より飼ってみるともっと可愛く思えてしまうから不思議だ。
 日中留守の時もう一匹いればにゃー助も寂しくないかもなどと思ったものの、まあそれは自分の仕事が落ち着いてから考えようと、響は踵を返す。
 離れのドアを開けると、ペットゲートの向こうににゃー助がちょこなんと座って待っていた。
 ペットゲートはいつぞやにゃー助が飛び出して真夜中探し回ったのを機に、レッスンの生徒も出入りするので、朱莉の店に頼んで寛斗が取り付けてくれたものだ。
「お腹すいたろ、今ごはんやるからな」
 自分の食事はどうでも猫にはきっちり食べさせている。
 寝室のドアにはペットドアも取り付けてもらった。
 冬にドアを開けておくのは寒すぎるし、なるべくにゃー助の動き回れる範囲を狭めたくはない。
 いつの間にか生徒たちの間でもにゃあ助は既に人気者だ。
 レッスンに来る生徒は、ほぼ中学生から高校生である。
 田村先生の教室に通っていた生徒のうち引き継いだ生徒と口コミでやってきた生徒だけで、看板も掲げているわけではない。
 実際、幼い子供はどう対処していいかわからないし、どちらかというと大人や上級者の方が響としては言葉が通じるのでありがたい。
 一人だけ六年生の男子生徒がいるが、芸大を目指しているらしく熱心だ。
 できれば中学あたりから東京の音大付属に行くことを勧めたが、家はそこまで裕福ではないので、この街で高校まで行って、芸大と私立の音大を受験するという。
 ただピアノだけ弾いていればいいわけではないので、いずれは音大受験に合わせたレッスンを受けた方がいいとは生徒の親に説明している。
「予備校に行くのと同じで、希望大学に合わせた予備レッスンだよ」
 響は生徒に言った。
「先生もそういうのやった?」
「高校の時な」
 ただしその点、響の場合はひどく恵まれていた。
 父親は口も金も出すことはなかったが、著名なピアニストである片瀬玄は亡くなった祖父の友人で、この街に山荘を持っていたのでよくそこに来ていたため、響は中学の頃から片瀬にレッスンを受けていた。
 費用は祖父がどれだけでも惜しまず出してくれていた。
 片瀬は響の出身大学の名誉教授でもあり、響をウイーンに留学させたのも片瀬だ。
 だが、祖父より半年早く、ニューヨークでこの世を去っている。
 響のピアノを愛してくれた一人だ。
 だが、もっと自由にやれ、が、いつも片瀬が響の顔を見ると口にしていた言葉だ。
 ある程度まできたら、レッスンもああしろこうしろとは言わず、まあいい、が口癖だった。
 なかなか、いい、とは言わない人だった。
「先生は教えてくれないの?」
「大学によって受験の仕方も変わるし、俺はピアノバカだから、ピアノ以外はダメだな」
 それに田村が復帰すれば響はお払い箱になるかもしれない。
 というより、この地でそれ以上やれるかどうか今の響にはわからなかった。
 井原の出現には動揺したものの、わだかまりもなく話すことができて、響は嬉しかった。
 だが再三、自分にも言い聞かせているように、今の井原は、響の知っているかつての井原ではないのだ。
 例え同じ学校に通っているとしても、モラトリアムの中に戻れるわけではない。

 


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