何も聞かずに俺の手を握っていた井原の手はすごく温かくて。
ポトリとひとしずく、下を向いていた響の目から床に落ちた。
ほんとはすごく好きだった。
だから俺なんかといちゃいけないやつなんだって。
またひとしずく、落ちた。
もう何年も胸の奥に押し込めていた感情が溢れ出て止めどない。
つきあう…………って………。
え、俺と井原?
え………………!
文字通りの言葉の意味をようやく理解した途端、心臓が大きな音を立ててはねた。
つきあうって……、それこそ小学生じゃないんだから、そういうことだよな。
俺と?
いきなり血液が逆流したかのように、頬が熱くなる。
井原と触れ合うとか、考えただけでも飛び上がりそうになってしまう。
身体のつきあいをしたがったやつらなら、いくらかいた。
何だか知らないが響を抱きたがるやつらがいて、さすがに相手かまわずとかはなかったが、少なくとも三人、いや二人半とはつきあったつもりだった。
いずれも押しの強いやつらばかりで、響を階段から突き落としたヨハンの馬鹿とはキスプラスアルファどまりだったからまだよかったと言える。
ヘンリエッテも押し切られて付き合ったものの、響が煮え切らないことで離れて行ったし、クラウスも半ば強引に身体のつきあいに持っていかれたが、心が熱くなることなんかなかった。
クラウスに騙されたとはいえ、なし崩し的に否とも言わずにそんな関係になってしまった響にも責任がなかったとは言えないのかもしれない。
響に他のアーティストが近づいて妙にべたべたしていたりすると、血相を変えてクラウスは嫉妬した。
可愛い、愛してるを連発していたクラウスを、俺が可愛いとか目がくらむってこういうことだな、などと響は冷ややかにしか見られなかった。
その報いなのか、井原となんて、怖ろしくてそんなつきあいができるとは思えない。
キスとかだって………。
考えただけで沸騰しそうになる。
ああ、もうやめてくれ。
「これ以上俺をおかしくさせないでくれ」
響は両手で顔を覆う。
壁の時計は既に夜中の二時を指している。
このままでは眠れそうにないと、響は高校時代に読んでいた本が並ぶ棚に置いていたコニャックを取って、マグカップに半分ほどそのまま注ぐ。
ゴクゴクと飲み干して、響はふううっと大きく息をついた。
ベルリンを離れる時にクラウスがくれたものだが、当時はクラウスが自分を騙していたことに怒り心頭で、捨ててしまおうかとさえ思ったものの、思いとどまったのがここにきて役にたってくれそうな気がした。
「キョー先生、大丈夫? 何かすごいお疲れみたい」
気がつくと目の前に榎が立っていて、心配そうな顔をしている。
「あ、ああ、平気」
何とか一日をやり過ごした響だが、コンクールが刻一刻と近づいてくる中、放課後の音楽室は少し殺気立っていた。
「でもキョーちゃん、目の下クマができてる」
すかさず妙に細かいところに気がつく寛斗がピアノの向こうから言った。
「夕べ、授業の準備でちょっとな」
響は適当なことを言ってごまかした。
昨夜は酒を飲んで横になってからもあれこれ考えて、酒のお陰で何とか三時過ぎには眠ってしまったようだが、寝起きも最悪だった。
「いい年なんだからお肌に差し障るような夜更かしはしない方がいいぞ」
からかう寛斗を、「寛斗、真面目にやって」といつにないきつい声で瀬戸川が注意した。
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