そんなお前が好きだった86

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 井原にしてみたら、響のことを大切にしたいからこそ、と思って十年経ってしまったわけなのだが、おかしなことに、いつかはきっとという妙な自信が井原にはあった。
 在学時も響が自分のことを好きでいてくれるというのも口には出さなかったが何故か確信があった。
 だからクラウスが現れた時はカッとなって突っ走ってしまった。
 響に断られた時は頭が真っ白になったが、荒川の事件を知って、荒川には悪いがほっとしたのも確かだ。
 今度こそ失敗しない。
 こんな絶好のチャンスをみすみす逃すつもりはないが、いきなり襲い掛かって響を怖がらせるようなことはしたくなかった。
「そんなことでよければ……」
 響は小さな声で言った。
「響さんの都合のいい時で。あと、オーディオセットを揃えるつもりなんだけど、まだ、どれにするか迷ってて」
 響の答えに満足した井原は続けた。
「こっちに、東の絵を飾るんだ? あと、緑があった方がいいんじゃないか?」
「お、それそれ。なるべく手間のかからないやつね。俺、下手して枯らしちゃったことがあるし」
 井原が軽く笑うと響もつられて笑う。
「手間かからないやつ、いくらでもあるんじゃないか?」
「だな。あと、キーボード、今、メンテに出してて、一応、書斎にでも置くかとは思ってるんだけど」
「そうなんだ? そういえば見当たらないと思ってた」
「結構、年季入ってて、愛着もあるんだ。Moogのやつ。響さんのピアノみたく送ったりするの大変でもないから、向こうから持ってきたんだけど」
「ピアノは届いてからも調律師に来てもらったりして、めんどくさいよ」
 響は思い出したようにコーヒーを飲む。
「そうだ、食器類ってか鍋釜ないぞ」
 井原がハッと思い出して口にする。
「炊飯器は使わないのか? レンジもいるんじゃないか?」
 キッチンにはそういったものがまるでない状態だ。
「うわ、それもだ。カーテン選びのついでに響さんつきあってよ買うの」
「いいけど、どこで買うんだ?」
「どうせ車で行くんだし、ちょっと遠出してもいいっしょ?」
「え、うん、まあ、いいよ」
 響は少し戸惑いつつも頷いた。
 井原の告白をお断りした後で、こんな風に井原と穏やかに話せるのが、響には嬉しかった。
 だが、お断りを撤回しないと断崖絶壁だ、などと元気に脅されたことを思い出し、心の中ではどうしよう、どうしたらいい、と考えあぐねていた。
 言葉にするのは簡単かもしれないが、いざとなると二の足を踏んでしまう。
「そうだ、シャンプーとかもないんだ」
 井原は母親にストックしてあった石鹸や洗濯洗剤などを持たされたが、それ以外にも揃えなくてはならないこまごましたものもたくさんある。
「食器用の洗剤とかもいるだろ?」
「ですね、スポンジとかそういうのも」
「近くのドラッグストアで揃うんじゃないか?」
「ありましたね、車で三分くらい?」
「そのくらい」
 すると井原がくすくすと笑う。
「何?」
「や、何か、新婚さんの会話みたいで」
 響は一呼吸おいて「バカ言ってんなよ」とかなり冷えたコーヒーを飲み干したが、意識したくないのに頬のあたりが赤くなるのを感じた。
「アップライトだったら、ここにも置けますよ」
「は?」
「今の離れはレッスン専用にして、ここに一緒に住みませんか?」
「何言って」
 響は笑い飛ばそうとした。
「俺、本気なんですけど。響さんのこともう逃したくないんで」
「バカなことばっか……」
 言うなよ、という言葉は、井原の強い視線に出くわして、尻切れとなった。
「あれ、ウソでしょ? お断りの電話。荒川先生の件はチャラになったんだから、もう関係ないし」
「え、……いや、あの………」
 いう間に井原は響の傍に迫っていた。
「俺、バカなんだ! 響さんのことになるともう好きすぎて」
「え、ちょ……井原………」
 響を押し倒して井原はキスにいたろうとしたものの、響に思い切り押し戻された。
「あっ、ごめ………あの、違うんだ………」
 ソファの上で後ずさりした響が見上げた井原は、拒否されて思い切り憮然としているようだった。

 


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