そんなお前が好きだった88

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「ああでも、毛布なかったらまた俺襲いそう」
 くだらないことを口にしている井原をバスルームでは響が罵っていた。
「ったく、あいつは! 平気な顔して! ウルトラバカ!」
 しかも何の気なしに鏡を見た響は思わず毛布を落としてしまった。
 身体中に小さな赤い痣が点在している。
 リアル新婚さんかよ!
 カーっとまた頭に血が上った響は、シャワーを頭からかぶった。
 多少の鈍痛はあるが、ただやりたいだけのクラウスとはまるで違う。
 断崖絶壁から落ちる恐怖ではない、落ちていくのに浮遊するかのような心地が蘇る。
「バスタオル置いときますね」
 ドアの向こうで井原の声がすると、また響の心臓は飛び上がった。
「シャンプーとか買って来てからにしろよ! バカヤロ!」
 わけがわからない怒りを口にしながらバスルームを出ると、バスタオルで髪をゴシゴシ擦った響は自分のシャツとパンツをはいて、毛布とバスタオルを洗濯機に放り込む。
 裸足のまま響がソファにそっと戻ると、井原が買ってきた唐揚げやサラダなどの総菜や海苔巻きなどをプラスチックの容器のままテーブルに並べていた。
「お茶でいいですよね」
 井原はマグカップを響の前に置き、隣に座った。
 さっきは斜め向かいに座ったのに、なんでくっついてくるんだよ、と響は心の中で喚く。
 マグカップを取ろうと伸ばした指にサラダを取ろうとした井原の手が触れた途端、慌てて響は引っ込める。
「そんな怖がらなくても」
 はあ、と井原がため息をつく。
「こ…怖がってるわけじゃ……」
「俺は響さんとこうしていることがまだ夢みたいに嬉しいのに、嫌だった?」
 軽く心情を吐露されて響はまた俯いて赤くなる。
「……いや、なんかじゃなかった……」
 小さな声で響は言った。
「え?」
「だから、いやなんかじゃなかったってるだろ?! ほんとは、俺、お断りを撤回して、断崖絶壁を回避しようと………」
「は? 断崖絶壁? じゃなくて、お断りを撤回ってことは付き合うのイエスってことでいいんだ?」
 井原は声を上げた。
「イエスの前に何でああゆう展開になるんだよっ!」
「そりゃ、響さんと二人きりになってああいう展開にならない方が無理でしょ」
 へらっと井原は開き直る。
「何が無理でしょだよ」
「あいつ、金髪野郎の方がよかったとか?」
「バカッ! なわけないだろっ! クラウスなんかより全然……!」
「よかった?」
 にっこり笑って井原は響を覗き込む。
「だからっ! あいつが勝手に盛り上がってただけで……」
「俺のがいい?」
「だから………お前と一緒にいたら俺、お前しか見えなくなって……自分が自分でなくなっちまうって……思って……」
 ぼそぼそと言葉を連ねる響が愛おしくて井原はそのまま抱きしめた。
「俺はいつも、あの頃に戻れたらって、できないようなことばっか思ってた。あの頃の、響さんが傍にいた頃に」
「井原……俺、俺だって……」
「じゃあ、なんで、来てくれなかった………俺は、響さんのピアノの邪魔にはなりたくなかったから、四年後にって言ったのに……」
 やっぱり、井原は待っていたのだ。
「俺は、俺こそ、お前の前途を汚すようなこと、したくなかった……だってそうだろ? 俺たちのことで、お前の家族ががっかりするようなことになったらって………」
 井原はかぶりを振った。
「だから、違うって。俺の人生は親の人生じゃないし、俺が決めるものだからさ。そんなこと言ったら、響さんこそ、頑固なお父さんが怒るかもな」
 井原はきっぱりと言った。
「だから親父のことはいいんだって。怒ろうがどうしようが。でもじいさんにはわかってもらいたかったから、ヨーロッパに訪ねて来てくれた時に、クラウスとつきあってるけど、井原のことがずっと好きだったって話したんだ」
「響さん」
 井原は感極まって瞼が熱くなり、また響を抱きしめる。

 


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