キッチンの床が真っ赤に染まっているのをチラリと見てしまった千雪は、一瞬青くなり、しばし呆然と咲子を運んでいく二人を見送った。
「大丈夫ですか? 咲子さん」
やがて戻ってきた藤原に、千雪は尋ねた。
「はい、公一と京助さんが今病院へ向かいました。何でも早期剥離の可能性があるからと京助さんがおっしゃって」
「……え………」
千雪は言葉が出てこない。
「どうぞ、お部屋でお休みになっていてください。あとは医者に任せるしかありませんからね」
「あ、はい。ありがとうございます」
こんな時、千雪は何もできない自分がもどかしい。
一瞬、中学の時、倒れた母親の記憶と重なった。
やがて訪れたなす術もなく受け入れざるを得なかった母親の死、絶望。
未だに千雪の心をぶった切ってくれたものばかりが舞い戻るのだ。
父親の時は再会が病院だったせいか、母親の時のようなそこまで耐え難い感覚はなかったが、唐突に訪れる喪失感は消え失せるようなものではない。
それは愛犬を亡くした時にも味わった痛みだ。
いずれにせよ、藤原の言う通り咲子のことはあとは医者に任せるしかないし、京助がついている。
女タラシで傲慢なジャイアン、と常々文句をぶつけている京助だが、こんな時は非常に頼りになるのだとは、千雪もよくわかっていた。
休んでいろと言われても、やはり気が気ではない、何か手伝うことがないかとキッチンに行ってみると、藤原は床を掃除しているところだった。
ふと見ると、咲子は食事の用意を始めていたらしく、シンクにはまな板の上に切られた野菜など材料がそのままになっている。
モップを持って振り返った藤原に、「俺も何か手伝います」と声をかけた。
「いえ、お客様にそんなことは」
「何かじっとしてられへんし、それ作りかけですよね? 俺やりますよ」
「お気になさらず、今夜は出前でも取りますから……」
「でも、せっかく用意仕掛けでもったいないし。何、作ったはったんです?」
頑として立ちふさがる藤原の横を通って、千雪はキッチンに入った。
「ハッシュドビーフと、言っておりましたが」
藤原は答えた。
「ハッシュドビーフか…」
ちょっとそれは無理だな、と思いながら、千雪は棚を開けてみる。
すると、買い置きのインスタントカレーの箱が目に留まった。
「あ、これ、使こてもええです?」
「それは賄い用かと、お客様には…」
「京助とちごて、料理はインスタントカレーくらいしかでけへんし、これ、借ります」
まだ、難しい顔をして千雪の様子を見ていた藤原だが、千雪が袋にあったジャガイモを取り出してピーラーで皮を剥き始めるとようやく諦めたらしい。
「それでは、くれぐれもお気を付けになって下さい」
藤原はモップを持ってキッチンを去った。
皮を剥いたじゃがいもを大き目に切ってボールに入れると、千雪は刻んであった玉ねぎをフライパンで炒め始めた。
ふと見ると傍らの椅子に、ウサギ柄のエプロンが掛けてあったので、それを借りてつけると、ぎこちないながらにフライパンを動かした。
「あれ? 咲子さんは?」
材料を棚からみつけた寸胴鍋に入れて煮初めてしばらくしてからだった。
不意にかけられた声が京助によく似ていたので、千雪は振り返った。
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