「先生、こちらへどうぞ」
先ほどのプロデューサーが千雪を促して工藤の横に座らせた。
それぞれの紹介がなされ、千雪は俳優陣を見渡したが、ほとんど知らない顔ばかりだ。
ただ一人、何となく見覚えがある顔があった。
映画では青山プロダクションの志村嘉人が演じている役どころである。
大澤流と紹介されたのは、いつぞや原夏緒を特集する番組撮影のあとに工藤に連れていかれた店で出くわした男だ。
あの、クソ生意気なヤツ!
もっとももう覚えてもいないだろうし、誰であろうとキャスティングに口を出すつもりはない。
休憩時間になると会議室を出て、トイレに寄ってから千雪はそのまま帰るつもりだった。
挨拶したプロデューサーの反応でもわかるように、噂や評判というものがいかに勝手にイメージづけてくれるかということを、千雪は面白く観察している。
この日身につけているものも従姉の小夜子やその夫で京助の兄である綾小路紫紀夫妻が用意してくれているワードローブからオーダーメイドスーツの一着である。
大学の法学部助教として派手すぎず、かといってどこに着て行っても恥じることのない上等のものだ。
にもかかわらず、あのプロデューサーには臭そうと思われたらしい。
空き巣の件があったため、千雪は部屋を移ることなど全く考えていなかったにも拘わらず引っ越しを余儀なくされたセキュリティの高い今のマンションには、小夜子らによって家具から何から全てが整えられていて、千雪の持ち込んだものといえばさほど多くない衣類や、それこそ千雪が近くのスーパーなどで買ったおじさんグッズ一式と膨大な本だけだった。
小夜子に文句を並べても暖簾に腕押しなので、今回ありがたく利用させてもらったのだが、夏用に軽い素材で作られたスーツは、思った以上に着心地がいい。
最近は大きな学会にも顔を出さざるを得なくなってきたし、確かに妙なものは着ていられない。
おかげで千雪は、最近服を自分で買ったことがない。
千雪がいたせいか、いつの間にか誰もいなくなっていたトイレの洗面台で鏡を覗き込んで黒縁眼鏡を外し、この眼鏡と掻き回した頭だけで、いかに本来の自分を隠しおおせているか悦に入っていた千雪は、不意にドアが開けられたので、千雪は慌てて眼鏡をかけた。
入ってきた男とすれ違いに出ていこうとして、いきなり肩を捕まれ、驚いて男を見つめる。
「小林千雪先生だよな」
中肉中背、度の強い眼鏡、年は自分より若いかもしれない。
「そうですが、あなたは」
男はさらにぐいぐい千雪の両肩を掴んで壁に押しつける。
「一体、なんでうちの安西豊でなくて、大澤なんだ? え? 親の七光で威張ってる二世俳優なんか、演技の一つもできやしないのに、どこがいいんだ? 安西が奴よりどこが劣るってんだ? え? 先生、言ってみろよ!! どんだけ金を掴まされたんだ?」
始めは何のことだかわからなかった千雪だが、ようやく男が言っていることが分かりかけてきた。
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