たまたまカップを下げてきた紀子にも聞こえたらしく、元気と豪の顔を交互に見た。
「コーヒーゼリーとアイスコーヒー追加ね」
紀子は豪の台詞には関知せず、ことのほか明るい声で元気にオーダーを告げた。
今度は元気が静かに怒ったのがすぐにわかったからだ。
普段は優しくてあたりがいい元気も、ヤロウ限定だが声に出して怒るくらいならままあることだ。
ただし本当に怒ると態度が冷ややかになる。
豪のはダダコネと同じようなもので、つい甘えて嫉妬でそんな言葉を吐いてしまったのだが、口にした途端うっかり地雷を踏んでしまったらしいこともわかったはずだ。
元気は今日はもう口をきいてくれないだろう。
とはいえ一度口にしてしまったことはもうなかったことにはできない。
豪はふうっと大きく息をついてコーヒーをすすった。
くっそーー!
腹立ちまぎれにコーヒーを飲み乾し、空いたカップを弄びながら元気に目をやるが、それこそ目も合わせようとしない。
自分の失言に豪は心の中で地団太を踏む。
今日も昼過ぎからぐんと気温があがり、涼を求めて店にやってくる観光客の出入りが多かった。
それもピークを過ぎた四時頃、男が一人入ってきて、最初からカウンター席に座った。
観光客というには少しばかり毛色が違う。
髪は少し長めに小奇麗に整えられ、ブラウン系のジャケットにカットソー、ロールアップしたベージュのパンツにローファーと一見地味目だが着こなし感が田舎者とは一線を画しているといった雰囲気だ。
ポケットに無造作にサングラスをしまう仕草もわざとらしさがなく、そこそこのイケメンなのが周りの女性客の注意を引いている。
「ホットコーヒー」
男がそう言った時、豪のジーンズのポケットで携帯が鳴った。
とりあえずここは少し時間が必要だろうと、小銭でコーヒー代をカウンターに置き、「後でまた寄る」とだけ言い残すと、バッグを肩に引っ掛けながら仏頂面のまま豪は店を出て行った。
「うまいな」
一口飲んで、男が言った。
「ありがとうございます」
「これ、バッハですね、お好きなんですか?」
店に流れている曲に気づいたらしく、気さくに男は声をかけてきた。
「亡くなった親父のコレクションなんです」
「なるほど、元気さんの音の根源はバッハか」
それまで男に調子を合わせていた元気の顔が俄かに曇る。
「いや、それにしてもすごかったですね、久しぶりにライブに行ったら、何と元気さんのギターが聞けるとは思ってもみなくて、昔のままっていうか、前より研ぎ澄まされたっていうか」
男は勝手にしゃべり続け、「あ、私こういうものです」とポケットから名刺を取り出してカウンターの元気の目の前に置いた。
男にチャラい感じはないが、去年の赤坂プロダクションのこともあるし、業界関連の連中には関わりたくはない。
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