ウールカシミアのダークグレイのカーコートにサングラス、大柄な男がエレベーターから降りると、廊下に屯していたスタッフやタレントらが思わず振り返らずにいられなかった。
絶対只者じゃないな的なオーラにサングラスの奥からでも鋭い眼光が窺えそうな雰囲気につい後ずさりして、皆が男の行く手から身を逸らす。
スタジオのドアを開けると、ざわめきがどっと押し寄せた。
ちょうど休憩に入ったところらしく、脚本家の坂口が監督の溝田や宇都宮と声高に話し込んでいた。
「おや、工藤さん、お疲れ様です」
気づいて声をかけた宇都宮に、お疲れ様です、と工藤は軽く会釈をする。
「何だ、今日は仏頂面のお出ましか。今日良太ちゃんはよ?」
すぐに坂口がそれを聞きつけて口を挟んできた。
「風邪でダウンしました」
「あーあ、お前、こき使うからだぞ?」
「あいつは毎年一度は寝込むんですよ」
にこりともせずに工藤は「どうですか」と溝田監督に尋ねた。
「いやあ、順調ですよ。そうか、今流行ってますからね、インフルとか」
「インフルではなかったみたいで」
「そういや確かお前、珍しく風邪引いたって聞いたぞ? さては良太ちゃんに移したな?」
工藤は嫌そうな顔を隠そうともせず眉根を寄せる。
「あれ、工藤さん、良太は?」
コーヒーを二つ持った小笠原が工藤を見つけて聞いてくる。
全く、どいつもこいつも俺の顔を見て、良太は、とくる。
フン、それだけ良太がちょこまか動いてるってことか。
工藤はそんなことを結構嬉しいと思っている自分を嗤う。
朝、良太の熱はまだ三十七度を超えていたので、そのまま寝かせて、加賀を呼んだ。
「ったく、今度は坊やの方かよ」
グチグチ文句をつけながらも、加賀はやって来て良太を診察し、インフルは陰性だが、今日は旨いもんでも食って大人しく寝てるんだな、と言い置いて帰って行った。
「まあ、お風邪?」
鈴木さんも心配顔で工藤のデスクにコーヒーを置いた。
「あ、じゃあ、俺、今ひとたびの、方、行って来ます」
森村が状況を察知して言った。
「ああ、そっちも後で寄る」
工藤がそう言うと、森村も神妙な面持ちで頷いて出て行った。
「あれ、良太は?」
今ひとたびの、の撮影は古い日本家屋を借りて行われていたが、工藤が現れると、竹野の第一声がそれだった。
「風邪だ」
「ああ、良太、動き回ってると熱が出てるの気づかないタイプだよね」
竹野は人のことをよく見ていると思っていたが、良太のことを気に入っているのだろうことも窺い知れた。
「え、風邪? 工藤さん移しちゃったんだ」
アスカが工藤を責めるようなことを言う。
「良太、スタッフにも覚えめでたいですからね」
さり気に秋山が傍に来て言った。
「しかし竹野さん、前は工藤さんが何でいないんだとかって癇癪興してたのに、変われば変わるもんですね」
山根監督も秋山の言葉に同調するように頷いた。
「いつの間にか制作陣俳優陣全てに浸透しているんですよ、彼。自分では気づいてないかもですが、ある意味やり手ですよね」
「まあ、そうおだてずに、長い目でみてやってくれ」
苦笑しつつ、今朝方パンのミルク煮を平らげて眠っていた良太を思い浮かべながら工藤は言った。
撮影はほぼスケジュール通りに終わりそうだというので、工藤はロケ現場を出て車を会社へと走らせた。
「何やってるんだ、おとなしく寝てろって言っただろうが」
工藤が部屋に戻るとベッドに寝ているはずの良太がいないので、隣の部屋を覗くと、猫のトイレを片付けていた。
「なんか、熱、下がったみたいだし」
工藤は立ち上がった良太の額に手を当てた。
「ちょっとよくなったからってホイホイ動くとまたぶり返すぞ」
「今日ちゃんと寝れば、明日は大丈夫だってば」
工藤の手が離れると良太は少し気恥ずかしくてそんな言い方をした。
何か、妙に親切で、工藤じゃないみたいじゃん。
「メシ、食えるか? 出前でも頼むか」
え、今日はもうどこにも行かないんだろうか。
良太は思ったが、口には出さず、「カツ丼食べたい!」と主張した。
「病み上がりにそんな脂っこいもの食って大丈夫か?」
「腹減っちゃって、へへ」
良太は笑ってゴミ箱に捨てに行く。
「じゃ、メシがくるまでおとなしくしてろ」
工藤はリビングのテーブルに置いていたコンビニの袋から、おかゆやヨーグルト、プリンなどを冷蔵庫にしまうと、いつも鈴木さんが利用している近所の食事処、好日庵に電話をかけた。
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