何だか、また井原のことを思い出してしまったな。
などとのんびりしていた響だが、間もなく高校時代の音楽の教師である田村からの一本の電話が入ってから響のそれからが怒涛のように決まっていった。
幸か不幸か、父親の口癖ではないが、卒業して潰しがきかない時のために一応教員免許も取るのだと言っていた大学の同期に誘われて、何となく響も取っていたのがこんなところで役に立ったというか。
入院するという田村への心配もあったが、非常勤とはいえいきなり母校の教師に就任した響は、音楽の授業の初日から寛斗と出くわした。
「ウッソー、うちのセンセだったわけ? んなことひとっことも言わなかったじゃん!」
前任者の田村に紹介された響を見て、でかい図体で前の方に座っていた寛斗は立ち上がって喚いた。
懐っこかったのは田吾作改め、にゃー助だけでなく、この寛斗も同様だったようだ。
最初からバカにされないようにとクールに決めたかった響だが、寛斗のお陰で、二年のこのクラスでのキョーちゃん呼ばわりが瞬く間に全校に広まっていた。
人前ではもう弾きたくもないと思っていたピアノだが、授業をやる上でピアノを使って音を出しながらのスタイルが定着し、特に寛斗のクラスではブーイングに脅されて最後に一曲軽く弾かないと終われなかった。
「リストは? 愛の夢とか」
「ショパン!」
「モーツァルトをジャズっぽく」
できないのかと言われるのが大嫌いな負けず嫌いが災いして結局生徒のリクエストに応えることになる。
「残念ながら日本の今のヒット曲とかは知らないから言っても無駄だ」
できないのではなく知らないのだとあらかじめ念を押した。
六年ぶりの日本は響の知っている日本ではなかった。
十年ぶりの郷里はさらに変わっていた。
だが変わらないものもある。
この校舎はほとんど変わっていない。
桜並木も校門の傍の大銀杏も。
「響さん、大学卒業したら、この大銀杏の下で逢おうよ。きっかり四年後の今」
響が東京に発つという三月も終わりの朝、わざわざ大銀杏のもとへ響を連れてきた井原が言った。
響を、ひびき、と呼んだのは井原くらいだろう。
「約束だからな!」
井原は宣言するように声を上げた。
おそらくお互いに好きだった。
言葉にしたこともなかったが、じゃあ、行くわ、と言った響を、井原は唐突に抱きしめた。
そのほんのわずかの時間が響にはひどく愛おしく思われた。
うん、とは言わなかった。
けれどほんとに四年後のその時に、また逢えたらと思った。
結局その約束は果たすことができなかったが。
今どうしているのか、と時々井原のことを思い出すたび、胸の奥に鈍く痛みが走る。
元気の話だとアメリカにいるらしい。
どこにいても大らかにあいつらしく生きているのだろう。
恋人なんてほど遠い、友人とかですらなかった後輩だ、俺のことなどとっくに忘れているだろうし、人を惹きつける要素に事欠かないあいつのことだ、きっと隣には誰か井原に似合いの人がいるに違いない。
母校の教壇に立って、センチメンタルな思いに浸っている自分を響は自嘲する。
だが今の自分にとってはそれもいいか、と思う。
風が少しだけ温かくなってきた。
早く春になればいいのに。
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